私が転職を決めるまで その6 ~「適応障害」をよく理解していなかった私と義実家の裏切り~

 
こんにちは、ポンコツハム(@pmktm)です。
 
3日ぶりの更新となります。
 
週末に加え、月曜日は年休を取ったので、ゆっくりしていました。
 
ブログを始める前は「毎日何が何でも続ける!!」と意気込んでいましたが、最初から飛ばしすぎて後からダレるのは嫌だと思い、本職が休みの日はこちらも休むという自分ルールを作りました。
 
さて、こちらのブログを始めてもう1週間がたちました。
 
スズメの涙ほどの収益があり(ほんとにスズメの涙です。一桁円ですw)、0から1になった瞬間ってこんなにうれしいんだと思ったところです。
 

 
千里の道も一歩から、そして、継続は力なりです。
 
古の時代から言われていますね。
 
今日は、適応障害を発症し、療養休暇を取得してから、それが原因で夫婦関係がこじれていったお話や、療養初期のお話をしたいと思います。
 
かなり個人的な話になりますがご了承ください。

 

半月の療養休暇取得

 
昨年7月末、私は人生で2度目の適応障害と診断されました。
 
主治医に診断書を書いてもらい、暫定的に、休暇期間をおよそ半月にすることにしました。
 
理由としては、当時の妻と話し合ったのですが、昨年の秋に結婚式を控えていたということもあり、「早めに治して」準備を詰めていこうとしたためです。
 

 
実際のところ、療養休暇に入るまでも、招待状の送付や式場との打ち合わせが続いていました。
 
もちろん、頭が機能していなかったのでなにも考えられませんでしたが…。
 
そんなこともある中で、ようやくストレス源から距離を置き、休暇に入ることになりました。
 
しかし、本当の地獄はここからだったのです。

 

妻及び義理の両親から手のひら返しされる

 
私は、昨年の春に婿入りをし、義理の両親と共に暮らす道を選びました。
 
妻が一人っ子だったということもあり、なぜか令和の時代になっても家父長制の考え方がまかり通っていた義実家において、苗字を変えて婿入りすることを強く強く懇願されました。
 
私の両親からは「複雑な気持ちだ」と正直な気持ちを吐露されたものの、「お前が幸せになるならそれでいい」と、最終的には婿入りを了承してもらえました。
 
私も、「2人が一緒になって幸せになれるのなら」と、深く考えないまま名字を変える決断をしました。
 
少し納得しきれていないながらも、その後の結婚生活は比較的順調であり、義理の両親からもそれはそれは手厚くしてもらったものです。
 
私が元気なうちは。
 
結婚して1年弱が過ぎたころ、私がオーバーワーク気味になり、ミスを連発し、鬼のようなパワハラを受け、メンタルがボロボロになりました。
 
職場の人事課とも相談をし、「療養休暇を取得する流れになる」と、妻とその両親に切り出した時のことです。
 
その時に、これまで優しかった3人が一気に手のひらを返してきた時のことを私は一生忘れることができません。
 
義理の父
「公務員なんか一番ぬるい仕事だろうが。納得がいかないことがあるならなぜそいつ(A係長)らに言わないんだ。あなたがこのまま療養休暇を取り続けるなら、俺は結婚式になんて出ない。」
 
義理の母
「あなたが公務員になるといったから、私たちは結婚を承認したのよ。あなたには一家の大黒柱になってもらわないと困るの。娘を守れないようじゃダメよ。弱いようじゃダメよ。強くなりなさい。せっかく公務員になったんだから、絶対にやめるとか言わないで。」
 
当初、具合が悪くなり始めた時に心配していた妻でさえも
「うつだって思いこんでるだけじゃないの?そんなの気の持ちようだから、治す気がないと治るものも治らないよ。家に帰った時ぐらい笑ってよ。」という始末。
 

 
その後も、体調が悪く午後から出勤を予定していたある日、部屋の布団で横になっていた時、義理の父親に自室に乗り込まれ、
 
「いつまで寝ているんだ。こっちまでおかしくなりそうだよ。社会人としてそんな体たらくはアリなのか?ゴロゴロしているだけで良くなるのか?」
 
もう、精神疾患の人にかけてはいけない言葉のオンパレードです。
 
弱っている私に必要以上のプレッシャーをかけてくるこの状況で、当然心が休まるはずもありません。
 
Googleで「うつ かけてはいけない言葉」で検索すれば、これらの言葉が検索上位に出て来やしないでしょうか笑
 
しかも、一番ショックだったのは、私が妻と結婚できたのは、私が公務員という身分だったからということが判明してしまったということです。
 
義理の両親による遠回しな嫌がらせもありました。
 
療養休暇に入ってすぐに結婚式場との打ち合わせがあり、その日は両家の両親も一緒に打ち合わせに参加する会だったのですが、義理の両親は急遽その日の朝になって打ち合わせの参加をドタキャンしたのです。
 
「急に親戚に赤ちゃんが生まれた」という取ってつけたような嘘の理由を添えて。
 
もともと私に対する接し方が良くなかったのならまだ分かったのですが、普段から親切にしてもらっていただけあって、その落差に愕然としました。
 
頭が真っ白になりました。
 
結果、療養休暇期間は私の実家に帰省することにしました。
 
妻から「私たちの家では面倒は見られない。実家に帰ったほうがいいよ」と言われてしまったのです。
 

実家にて療養

 

帰省後は、実家で2週間過ごしました。
 
2週間経ったらメンタルクリニックの診察日なので、その日に「何も問題がなければ」義実家に戻り、翌日から仕事再開の予定でした。
 
私自身も、結婚式を予定通り開催したいという思いがあり、休み始めた時はうつ病までいかなかったし、1回目の時は1週間で直したし、今回も頑張って治すぞ!」と意気込んでいました。
 
私自身も、精神疾患の恐ろしさを全く認識していなかったのです。
 
メンタルクリニック適応障害の診断を受けた日、抗うつ薬が処方されました。
 
ジェイゾロフトという薬でした。
 
飲み始めは朝の吐き気やめまい、不安感が収まらず、一日中布団の中に入って天井を眺める生活が続きました。
 

 

当然、薬を飲んですぐには効果は表れませんでした。

 
とにかく、「ブレインフォグ」という、目の前にベールがかかったような状態が続いていたのを覚えています。
 
気分も当然のように落ち込みます。
 
テレビで、同年代の人たちが活躍しているのを見て、「ああ、私は一体何をしているんだ」と、ひどく落ち込んだ時があります。
 
そんなわけで、落ちていた時はテレビを見ないようにしていました。
 
また、カウンセリングルームにカウンセリングを受けに行きました。
 
後ほどゆっくりご紹介しますが、カウンセリングの方法には「認知行動療法」「森田療法」「箱庭療法」など、様々なアプローチがありますが、私のカウンセラーは、「ナラティヴ・アプローチ」を主な手段としてカウンセリングを行う方でした。
 
当然、カウンセリングを1回受けただけでは現状は変わらず、実感できる効果はありませんでした。
 
このころの私は、「とにかく早く頑張って治そう」と、気持ちが焦っていたのだと思います。
 
あれだけ世間一般に「うつの時に焦るのが一番怖い」と言われているのにです。
 
しかし、薬を飲み始めてから1週間がたったころ、気持ちに変化が表れ始めました。
 
そんなに遠くないところへ一人で旅行に行ったときに、少しだけ「ワクワク」したのです。
 
ブレインフォグは取れないまでも、「楽しい」と思える自分がいました。
 
気が付けば、療養休暇終了まであと1週間になっていました。
 
「これなら、来週から仕事復帰は無理しない範囲でいけるな」と思いました。
 
しかし、現実は甘くありませんでした。

 

職場からのLINEでパニック発作

 
傷心旅行から帰ってきて、実家で比較的気分が落ち着いているときのことです。
 
A主任から個人LINEが届きました。
 
「お休みのところ失礼します。決算資料を作るときの何某の資料の場所がわからず困っています。保存場所わかりますか?」
 
私はそのメッセージを見るなりこう思いました。
 
「待って、そんな資料知らないし何もまとめてないし、なんでパソコンが目の前にないのに聞いてくるんだ、これは返事しないといけないのだろうか、でも返事したらしたでまたパワハラされる、怖い、怖い、怖い、怖い、死ぬ、死にたい、飛び降りたい、首絞めたい、、、」
 
気が付いたら過呼吸を起こして、涙もダラダラ流れていました。
 

 
激しいパニックを起こし、自室から階段を下りてきた際に偶然幸い母親が帰宅し、落ち着かせてもらいました。
 
「脈拍が異常なくらい上がっていた」と、母は当時の私の状況を振り返ります。
 
パニック症状により心身ともに一気にすり減らした私は、3~4日程度布団から抜け出せない状態が続きました。
 
両親に「気分転換しよう」と外に連れ出されても、一人唖然と突っ立っていることが多かったそうです。
 
その時のことを私は何も覚えていません。
 
薬を飲んで、職場や義実家からも離れているのに、職場のことがちらつくだけでメンタルはどん底に落ちてしまうのです。
 
この時、「こんな状態で復職も結婚式も無理だ。休暇を延長しよう」と思いました。(続く)

 
 
 
 
 

私が転職を決めるまで その5 ~結婚、そして転落~

 
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
 
社会復帰後初の1週間が終わりました。
 
昨年の7月からずっと休んでいたので、この「週末」というワクワク感を久しぶりに味わっています。
 
読者の方たちの中には、共感していただける方も多いのではないでしょうか。
 
ただ、日曜日の夕方に憂鬱になる感じを味わうことになるのかは少し怖いですが…。
 
でも、現時点では今の職場環境に対して何一つ問題はないですし、むしろ「仕事を積極的に覚えて職場の皆さんの力になりたい!」とおもっているくらいですので、憂鬱な感情は沸いてこないでしょう。
 
勤務時間も少ないですし、適応障害発症後の社会復帰としては理想的な労働環境ではないでしょうか。
 
これまで、このブログ内では、私が1回目の適応障害になったことをお話ししました。
 
1回目の際は、メンクリで診断書をもらっただけで、その後薬を飲んだり、定期的に通院したりということをなぜか私は行いませんでした。
 

 
その時は、適応障害という病気を甘く考えていたのだと思います。
 
今考えると、1回目の適応障害は環境調整で少しは緩解したかと思いきや、脳みそがマヒした状態で劣悪な職場環境にさらされ続けたことによって慢性的に悪化していき、最後の最後にとどめを刺されて、2度目の適応障害を発症してしまったのかなと考察できます。
 
1回目発症後、どのような経緯があって深刻な状況に陥ったのか。
 
今日はそのお話をしたいと思います。

 

同業の女性と恋愛、そして結婚

 
1回目の適応障害になって半年くらいしたころでしょうか、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた時のことです。
 
産業振興課は、市内事業者向けのコロナ対策支援措置を実施していました。
 
それは、市内事業者向けの補助金です。
 
当然申請が殺到しますので、日付をまたぎそうになるレベルで時間外が発生するくらい、多忙を極めました。
 
ちょうどこの時期に、プライベートでつながりのあった、隣町の町役場の女性職員とお付き合いを始めました。
 
業務の忙しさを慰めてくれた彼女のやさしさに惚れたのだと思います。
 
2人の想いではここにわざわざ書くことではないので割愛しますが、およそ1年後、私からプロポーズをして、結婚をしました。
 

 
その際、一人っ子である彼女の両親の強い要望があって、私は彼女の家に婿入りすることになりました。
 
結婚し、名字が変わり、私は市役所職員3年目に突入しました。
 
結婚したこともあり、多少業務が忙しくなっても、ある程度は心のバランスが取れていたのでしょう、すぐに気を病むことがなくなりました。
 
先にお話ししたA、B、C主任の私に対する理不尽な接し方は私が結婚してもとどまることを知りませんでしたが、それでも家に帰ったら愚痴を聞いてくれる妻という存在がいたので、ひどくため込むことがなくなったのだと思います。
 
このままであれば、今の職場で定年近くまで勤められるかな、と思いました。
 
しかし、本当の地獄はここからだったのです。

 

4年目職員になったとたん、職場環境が激しく悪化

 
3年目までは、産業振興課の中でも比較的「企画、事業」的なものではなく、「事務、届出」的なものを主担当として遂行していたことに加え、新型コロナウイルス対策措置の事務をさばいていたので、いわゆる「お役所仕事」についてはノウハウが固められていったように思います。
 
しかし、4年目になったとたん、大規模な担当替えが発生します。
 
これまで担当していた業務からすべて外され、これまでやったことのない企画、事業系の業務がすべてを占めることになりました。
 
市内の同業種組合の事務局担当、全く自活しないにも関わらず理不尽な要求ばかりしてくる指定管理施設担当、よくわからないまま進んでいた地域おこし協力隊の事務担当、前任が仕事を属人化させまくった挙句転職され完全に宙ぶらりんとなった業務の地雷処理担当…などなど。
 
なぜか、職員が10人もいて係が1つしかないうえに、職員1人が主担当業務を5~6つ程度抱える課だったため、事業担当一人当たりの負担はすさまじく、それに加えて上司が一つ一つの業務を把握するほど余裕がないため、必然的に業務を抱え込んでしまうという構造が出来上がっていました。
 
この組織的欠陥の話については、後ほどゆっくりお話ししたいと思います。
 
これに加え、誰もが予想はしていたが実現をしてほしくなかった事態が発生します。
 
それは、「A主任の昇進」です。
 
入庁以来約10年間、産業振興課ひとすじ(霞が関への出向を含める)だったA主任は、係長試験に合格してしまい、A係長となりました。
 

 
入庁以来、異動希望を毎年書いているにもかかわらず異動がかなわないうえに、私の精神を幾度となく踏みにじってきた人間が、私の直属の上司になったのです。
 
これが何を意味するか。
 
いままで、何とか関わりを避けることができていた人間と、今後は何が何でも関わっていかないといけなくなってしまったのです。

 

対外調整、年度末処理…オーバーワークの極み

 
年度が変わった瞬間から、業務は多忙を極めました。
 
私が担当していた指定管理施設の横に、大規模な市営のスポーツ複合施設が完成する関係で、夏頃に市をあげてこけら落としイベントを開催することになっていました。
 
市としては、周辺施設総ぐるみでイベントを盛り上げたく、私が担当していた施設の指定管理者(以下、指定管理者とします)にも協力を仰ぎましたが、全く自活する気配がなかったのです。
 
そのうえ、前年度に予算取りをしているにもかかわらず、追加で予算をよこせと言ってくる。
 
そして、私は同業種組合の事務局担当を「一人で」やらされていたのですが、組合もイベントを盛り上げたいという話になり、こちらもこちらで早々に動き始めます。
 
しかし、全くやる気のない指定管理者と、やる気に満ち溢れている同業種組合の間で確執が起こり、その両方を担当していた私は、当然板挟みになりました。
 
その電話対応などで丸一日が過ぎ、たまっていた事務処理を処理するのに日付をまたいだことは1度や2度じゃありません。
 

 
クレーム対応、理不尽な要求など、上に投げたくても、上は「担当がまずすべてを把握しろ」というのですから。
 
まして、公務員界隈の皆様ならご存じだと思いますが、年度初めは契約事務やら、目的外使用料の関係やら、出納閉鎖(5月末)までの支払いやら、ひたすらに事務処理が立て込む時期です。
 
外部団体の方々の火消しをしながらでは、当然業務は円滑に回りませんでした。
 
支払い関係は上司の力を借り、事なきを得ました(係長は関わりたくないので、課長補佐です)が、締結しなければならない委託契約などの事務が完全にほったらかしになっていました。
 

ミスを連発し、パワハラ再開

 
4月から5月にかけ、ひと月の残業時間は100時間を超えていたと思います。
 
一度も有給休暇を取れなかったですし、週末は毎回のように出勤でした。
 
「主担当がすべてやらなければならない」ということを暗に叩き込まれていた私は、必然的に自分の担当業務をすべて抱え込む形になりました。
 
しかも、残業をしていたのは、課の中で私一人のみ。
 
組織の構造上といいますか、業務の特性上といいますか、業務を均らすということができないのです。
 
現職場の窓口事務のように、何一つ決まったマニュアルがあり、誰でもできるようにする業務ではなかったのです。
 
係が一つしかないうえに、副担当も他業務で忙殺されているので無理もありません。
 
外部の人間も私にしか連絡をよこさないですし。
 
6月中旬になり、「頭が回らなくなってきた」「自分が発する言葉が不明瞭になってきた」「判断がつかなくなってきた」と感じるようになりました。
 
そんな中、私は同業種組合を怒らせてしまう致命的なミスを犯してしまうのです。
 
判断力が壊滅していた私は、仕事を回さなければならないと、副担当や上司に相談せず、独断で組合負担金の話を進めてしまったのです。
 
それが組合長の逆鱗に触れ、ここでは紹介することができないほど罵詈雑言にあふれたメールをもらうことになります。
 
A主任改めA係長と一緒に組合に謝罪に行きましたが、その日を境に、A係長は私に対して、ひそめていたパワハラ気質を一気に爆発させました。
 
私が報連相もせず独断で業務を進めたことに対してマジギレし、私の行動を逐一監視、私が何かするたびに逐一報告という義務が課せられました。
 
また、私がだれにも助けを求めずに仕事を抱えていたことに関しても激しく追及され、抱えている事務の洗い出しを、激しい罵倒をされながら進めたこともあります。
 
年度当初にするべきだったが多忙を極めてできていなかった業務についても、おかまいなしに「なぜ寝かせていたのか」といった追及をされたりもしました。
 
私が一挙手一投足なんかをするたびに、4年前のように罵声を上げるようになりました。
 
私が電話を取ると、私の近くに来て、電話が終わるまでにらまれたり、
 
メールでCcにA係長を入れ忘れただけで怒鳴られたり。
 
A係長は、明らかにパフォーマンスが落ちていた私に対し、疲弊している部下にかけるはずのない言葉を、とんでもない声のボリュームでぶつけてきました。
 

 
当然、おかしくならないはずはありません。
 
その日当たりから、以下の症状が顕著になりました。
 
  • 朝起きられない

 

  • 食欲が全くない

 

  • 出勤前に嘔吐

 

  • 突然涙が出る

 

  • 言葉が出てこない

 

  • 笑えない

 

  • パソコン画面を認識できない

 

 
職場で、心身ともに弱っている中、A係長は次のように私に怒鳴ったこともあります。
 
「いい加減普通にふるまえや!!!!!」
 
また、多かったのは、市で導入していたチャットツールでの陰湿なパワハラです。
 
C主任も副担当だったので、A係長、C主任、私の3人のグループチャットがあったのですが、そこでの私に対する2人のあたり方がとにかく辛辣でした。
 
私は上記のような症状が顕著になり、イベント直前にもかかわらず、仕事を休みがちになりました。
 
半日休む日もあれば、丸一日休むこともありました。
 
そんな中でも、2人からの私に対する罵詈雑言だらけのチャットは止まりませんでした。
 
こんなに打ちのめされた私に、判断力も何もかも弱っている中進めた業務について、業詰めの甘さを責めるなんて、普通するでしょうか?
 
私は、一度詰めの甘さを責められた際「体調不良が重なり、確認報連相できなくてすみません」と謝ったことがあります。
 
その際に、2人はチャットで私に何と言ったと思いますか?
 
「もう言い訳はいいよ。」「そんなことくらい自分の頭で考えればわかるだろ?そもそも体調不良でもやれよ。」
 
このやりとりで、私のメンタルはついに崩壊しました。
 

 
この日以降感情がおかしくなり、職場の事務室で堰を切ったように大声で泣き出したり、業務時間中にトイレに2時間くらいこもったりと、とにかく普通じゃない行動が増えていきました。
 
 
そんな状況だったので、イベント開催を待たず仕事を休み、数日後メンタルクリニックを受診しました。
 
まぎれもない適応障害という診断をもらいました。
 

 
私は、同じ要因で、2度も適応障害にり患してしまったのです。
 
この2度目の適応障害が、私の今後の人生を大きく大きく変えていくことになります。(続く)

私が転職を決めるまで その4 ~私をいたぶる人たち~

 
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
 
社会復帰2日目に突入しました。
 
昨日も少し触れましたが、同じ職場の方々は仕事を手厚くフォローしてくれています。
 
本当に、こちらが恐縮してしまうくらいです。
 
恐縮のあまりなかなか仕事にならずアタフタしてしまいますが、職場の方々は決して声を荒げることもなければ焦らせてくることもありません。
 

 
前職場と比較すると、同じ役所でもこんなに差が開くものなのだろうかと不思議で仕方ありません。
 
今日は、私を適応障害に追い込んだA主任の他にも、同じ課内にいた、私に嫌がらせをしてきた2人組の話をしたいと思います。

 

昭和タイプの体育会系、B主任

 
B主任は私の右隣に席がありました。
 
私が配属された日に、「この人、公務員らしくないな」という印象を感じた人でした。
 
法律や規則にしっかり則った事務をするという点では尊敬していたのですが、時折私に対して高圧的な態度をとってくるのが耐えられませんでした。
 
パワハラの度合いで言えば、B主任よりも悪質だった時も多いです。
 
「カス!!」「ボケ!!」「バカじゃねえの」という汚い言葉を使って罵ってくることもありました。
 
また、謎に因縁をつけてきて嫌がらせしてきたこともありました。
 
私が一年目の10月に適応障害を患い、休んだことを、本人曰く「面白おかしく」ネタにしてくるのです。
 
「またお腹痛くなってんなよ」とか、「おまえすーぐお腹いたくなるから話しかけられねえな」とか、「(2年目初日に)俺はお前にストレスというストレスを浴びせ続けて鍛えることにしたからな」とか。
 

 
掃除中にゴミを袋に入れるのが下手だと、箒で殴られたこともあります。
 
今考えるととても狂気の沙汰ではありません。
 
面白おかしくも何ともありません。
 
もちろん、これを聞いていた周りの職員が誰1人として「なんでそんなこと言うんですか」と声をかけることもありません。
 
A主任を含め、笑ってくる人間がほとんどでした。
 
また、口癖のように私に言ってくる言葉がありました。
 
それは、「仕事できないくせに」です。
 
「お前は仕事できねえんだからせめて気を使えるようになれ」「仕事できねえくせに一人で回そうとするんじゃねえ」「お前は3年目なってもできねえんだな」などなど、枚挙にいとまがありません。
 
仕事をまともに教えてくれなかったくせに、仕事の覚えが悪いのが私に原因があるかのような言い方をして責めて来るのです。
 
もっとも、「これはなぜこうなるのですか?」と質問して「それはね、こういう理由だからだよ」という答えが返ってきたことは1度もありません。
 
だいたい、「お前の日本語の意味が分からない」「お前がそう考える意味が分からない」からはじまり、直接的な答えを言わず私に気づかせようとしてくるような答え方をしてくるのがお決まりでした。
 
3分で終わるやり取りに20分程度かかるのは日常茶飯事でした。
 
まあ確かに、答えを詰め込むいわゆる「銀行型教育」よりかは、自分で主体的に気づかせる教育のほうがいいと唱える教育関係者もいるでしょう。
 
しかし、市役所は学校でも更生施設でもありません。
 
効率よく仕事を回すために職員は最善の努力をしなければならないと思います。
 
話が脱線してしまいました。
 
また、これはA主任もそうだったのですが、お客さんの前で罵倒されたこともあります。
 
「できねえくせにやるな、俺に変われや」「頭使えやボケ」これは、B主任からお客さんの目の前で本当に言われたことです。
 
一時期、半年ほど無視をされ、円滑に仕事が進まなかった時もありました。
 
私が謝ったことで人間関係は修復しましたが。
 
よくよく考えたら、無視をされたきっかけは私に落ち度がありましたが、それでも謝るまで無視するって、先輩職員のすることでしょうか?
 
B主任は、私が2回目の適応障害になり職場を去るまで、ずっと私と同じ課に居続けました。
 
B主任の存在も、私の心を慢性的に蝕んできた一つの大きな要因と言えるでしょう。

 

B主任の取り巻き、C主任

 
C主任は私の正式なOJTでした。
 
私が入庁したばかりの時はA主任にいたぶられる私を気にかけてくれていました。
 
1回目の適応障害の時も、「力になるよ」と、私のフォローをしてくれました。
 
しかし、それは最初のうちだけにすぎませんでした。
 
C主任はB主任と仲が良く、プライベートでも付き合いがあったようです。
 
私が1回目の適応障害から復活しかけてきたころに、仲の良いB主任と結託して私のことをいじるようになってきました。
 
最初は「ややめんどくさい」と思っていた程度ですが、私もへらへらしていたからか、だんだん笑えないレベルになっていきました。
 
B主任と同じく「お前は弱いからダメなんだ。もっと鍛えなければならない」というマインドで私に接してくるようになったのです。
 
それだけならまだいいのですが、そこに嫌がらせがプラスされてきたので、余計なストレスを感じるようになりました。
 
まずは、飲み会の際のアルハラ
 
一度、飲み会で粗相をしてしまい、B,C両主任から叱られたことがありました。
 
当然私は、「飲みすぎてはいけないんだ」という認識になり、飲み会ではお酒を飲みすぎないように心がけるわけです。
 
しかし、そんな私を見て「もっと飲めよ。グラス空けろよ。お前、俺らこの前叱ったけど、だからといって飲まないのは違うからな。」と、明らかに昭和の体育会系のようなハラスメントを私にしてきたのです。
 
当然、周りは見て見ぬふりです。
 
飲んでも、飲まなくても何か言われる。
 
わからないことを質問してもしなくてもキレられるように、常に何をしていてもキレられる状況に置かれていた私は、このような環境に4年間いたことで、慢性的に心を病んでいったのだろうと思います。
 
また、私の家の敷地内に入って車のナンバーの写真を盗撮されたこともありました。
 
あの時はさすがに弁護士相談も考えましたが、そこにかけるコストや労力を勘案して思いとどまりました。
 
要するに、B、C両主任は、私が下っ端だということをいいことに、やりたい放題を尽くしてきたのです。
 

 
一度、私は2人に「めんどくさいのでやめてください」とキレたことがあります。
 
それを聞いた2人は逆ギレし、「めんどくさいだと?てめー誰のおかげで仕事回せてると思ってんだよ。もう助けてやらねえからな?」と、不満を口にするならお前が回さなければいけない仕事で困ったときがあっても一切助けてやらないぞと脅してきたのでした。
 
こうした一連の出来事から、私は「何を言われてもヘラヘラして言い返さないようにしよう、そうしないと人間関係が破綻するんだ」という風に学習してしまい、A主任のパワハラを避けて行動するときと同じく、ひたすら委縮して日々を過ごしていたんだと思います。
 
また、C主任は時間外労働を遠回しに強制してきました。
 
「俺が若いころは事務作業を覚えるために土日も出た。仕事を覚えるために土日も綴りを見に来た。お前の仕事がうまくいかないのは、そういう仕事に対する想いが足りないからだ」とくるわけです。
 
しかもA主任のパワハラ後にです。
 

C主任も、私が2度目の適応障害で倒れるまで同じ部署にいました。

 

A、B、C3主任によるメンタルへの悪影響

 
3名から受けてきたハラスメントまがいの出来事による私のメンタルへの悪影響をまとめると、
 
  • 「とにかく何をするにも委縮するようになった」
 
  • 「聞けばすぐ解決するような質問でも、罵倒されるのを恐れ、いくら時間がかかっても自己解決するようになった」
 
  • 「ハラスメントまがいのことを言われ、それをため込むうちに、メンタルがマヒしてきた」
 
の3点だと思います。
 

 
現職場の天国のような環境と比べると、私は地獄の1丁目に足を踏み入れていたのだなと、恐ろしい気持ちになります。
 
まぎれもない職場いじめだと、強く思います。
 
このような環境に3年と少し在籍していた私は、4年目職員となり、こういった人間関係に加え、担当業務の責任も重くなっていき、とうとう2度目の適応障害を発症することになります。(続く)

私が転職を決めるまで その3 ~1回目の適応障害発症~

 

こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。

 

今日は会計年度任用職員として新しい職場で初勤務の日でした。

 

後ほど詳しく記事にしますが、私のことを人間扱いしてくれる職場って存在したんですね、というのが素直な感想でした。

 

 

今の職場が普通なのか、前職場が異常なのかとか、いろんなことを考えてしまいますが、転職して本当によかったなということです。

 

前職場で2度も適応障害にさせられているのですから、こう思うのも無理はありません。

 

今日は、1年目の秋に適応障害になったときの話をしようと思います。

 

エスカレートしていくA主任からのパワハラ

 

5月末に体調不良を訴えたあと、1週間ほどはA主任の私に対する当たりがソフトになりました。

 

しかし、1週間を過ぎたころ、切羽詰まったA主任が私に以前のように八つ当たりを再開し始めると、そこから一気に私に対する当たりが強くなりました。

 

A主任が主担当業務のイベント手伝いでも、なぜか私ばかりが八つ当たりされたり、私に無茶振りしたりする始末。

 

日々繰り返される大声での叱責。

 

私の脳みそは次第にマヒしていったんだと思います。

 

こんなこともありました。

 

振替休日を取った日に、お構いなしに個人LINEに連絡が来たのです。

 

私に落ち度があったにせよ、A主任はひたすら執拗に責めて来るのでした。

 

そして10月に入る前、いわゆる試用期間が終わるころ、公用車で2人きりで出かける機会があったのですが、車内で次のようなことを言われたのを覚えています。

 

「あなたさ、試用期間終わるんだよ。いつまでお客さん気分でいるんだよ。国のキャリア官僚を目指しているあなたの同期は今頃上司に死ねとか殺すとか言われながらも歯を食いしばってるんだよ。そのくらいの想いでやっていかないとだめだよ。別にいいんだよ、淡々と仕事したって。でもそれじゃあつまらないじゃん。…」

 

出た。「想い」

 

そして相変わらず自分の仕事観を他人に押し付けてくる感じ。

 

 

この人、正常じゃないと思うと同時に、全身から力が抜けていくのがわかりました。

 

A主任は数年前に霞が関に出向経験があり、周りの話だとそのころからおかしくなりだしたとのことでした。

 

別にここで霞が関の省庁を批判するわけではないですが、その時の同僚の「仕事に対する熱い想い(笑)」に感化され、それをそのまま現職場に持ってきてしまったようなのです。

 

今時、部下に「死ね」「殺す」っていう上司なんているんでしょうか。

 

遠回しに私にそう言いたいっていうことでしょうか。

 

ともかく、その火の粉を私がもろにかぶり続け、半年が過ぎようとしていたころ、私の主担当業務が立て込み始めます。

 

私、ついに倒れる

 

10月に入り、海外事業が急遽動き始めます。

 

市長が経済交流の名目で外国に行き、要人と面会したいといきなり言い出したため、急遽ロジなどの調整業務が入ったのです。

 

ロジの調整には、現地コーディネーターとの連絡調整、Wifiなどの機器レンタル、航空チケット手配、旅費支払いなどなど、とにかく多岐にわかる業務が含まれます。

 

もちろん、ロジなどの調整なんてやったことがないし、綴りを見ただけではスムーズに進められるわけはないですが、「あなたが担当だから」ということだけで、スムーズに仕事が進められない私はA主任をはじめ、周りから相当つつかれていました。

 

しかも先述の業務を主担当が一人でやらなければならないのです。

 

主担当がほぼワンオペで仕事を回すことになっていた、というのが前職場最大の欠点であるように思います。

 

同じ時期に、別に主担当業務として持っていた補助金の申請が立て込み、こちらもパンク寸前になりました。

 

 

一般的に書類の標準処理期間は1か月程度ですが、その期間を上回っていたことなんてざらでした。

 

それほどまでに業務がいっぱいいっぱいだった中、相変わらずA主任は、思い通りに動けない私に対して大声で罵声を浴びせ続けるのでした。

 

決まって二言目には、「いい!?主担当はあなただから。俺じゃないから。他人事みたいに傍観すんなよ!!!!!!!」

 

こういったことを日常的に浴びせられていたため、私は他人を頼ることができなくなっていったのではないかと思います。

 

そしてついに、身体と心に異変が現れます。

 

ある日の朝、尋常でないほどのだるさと、下腹部の鈍い痛みを感じました。

 

全く身体を起こすことができませんでした。

 

課長に電話で「5月の時みたいな症状が出たので休みます」と話したら、一言、「早めに医者かかれ」と言われました。

 

適応障害の診断下る

 

当時一人暮らしをしていたので、週末に実家に帰ることにしました。

 

両親の前で、今の心身の状態と、職場でのことについて話していたら、突然泣き崩れてしまいました。

 

こんなに嫌な思いをしているのに、あの職場に働きに出なければならないと思った瞬間、とてもやるせない気持ちになったのでしょう。

 

明らかに心に異常をきたしているため、メンタルクリニックを待たず1週間年休をもらうことにしました。

 

定期的に課長と連絡を取り合う中で、あの職場に戻るのであれば、A主任と一切かかわらない状況にしてもらいたいことを話しました。

 

その結果、「A主任とペアの仕事(海外担当など)は担当から外す」「A主任から離れた席に席替えする」ことになり、職場の環境調整が行われたのでした。

 

後日、メンタルクリニックを受信したら、適応障害と診断されました。

 

 

環境調整がなされたので、この時は療養休暇を取得しませんでした。

 

今考えれば、取得してしまったほうが良かったかもしれませんが。

 

こうして、私は、市役所入庁半年で先輩職員のパワハラが原因で適応障害を発症したのです。

 

環境調整をしてもらい、A主任とかかわることもほぼなくなり、業務も無理のない範囲で進めていましたが、この後、さらに心に負担をかけてくる人間たちが現れるのです。(続く)

私が転職を決めるまで その2 ~はじめて体調不良で仕事を休んだ日~

 

こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。

 

実をいうと私はまだ新しい職場に入庁していません。

 

明日付けでの採用になるからです。

 

約半年ぶりに仕事をするとあってかなり緊張しています。

 

 

転職経験のある方には共感していただけるのではないでしょうか。

 

今日は明日からの社会人生活に向けて精神統一をする一日となるでしょう。

 

新しい職場で仕事を始めた最初の数か月は緊張との戦いです。

 

前職場でも、最初の数か月(というよりもやめるまでずっと)は緊張しっぱなしの状態が続きました。

 

今日は、前職場に入庁してから最初の2~3か月に起こった話をしたいと思います。

 

優しかったA主任が豹変するとき

 

私の前の席に座っていたA主任の第一印象は、「頼もしい先輩」でした。

 

私が困っているそぶりを見せると、アンテナを張り巡らせ、すぐに声をかけてくれました。

 

外に出る用事がある際は同行してくれ、公用車の中で役所のいろいろな話を教えてくれました。

 

定時のチャイムが鳴ると「特に何も立て込んでなければ帰って大丈夫だよ!」と声をかけてくれました。

 

 

私にとってはA主任はとても頼れる存在で、「ああ、この人が同じ職場にいてよかったな」と思ったものでした。

 

基本的には困ったときに助けてくれるいい人だったのです。

 

平常時は。

 

しかし彼には決定的な欠点がありました。

 

A主任はかなりの気分屋で、自分が切羽詰まっているとたちまち機嫌が悪くなる人でした。

 

上から仕事を押し付けられてせかされたりしたときや、オーバーワーク気味になってくると、目つきが変わり、乱暴な独り言が多くなりました。

 

 

「何だよクソ」「死ねよ」という独り言を漏らし始めるので、同じ島の空気が悪くなりました。

 

このようにただ機嫌が悪くなるだけならいいのですが、それを周囲の人間に八つ当たりするのです。

 

それも、八つ当たりしやすい人間を選んで。

 

八つ当たりしやすい人間とは誰でしょうか。

 

それは、私のような下っ端や女性の臨時職員でした。

 

A主任は、とにかく立場の弱い者を選び、八つ当たりしたり罵声を浴びせたりする、典型的なパワハラタイプの人間でした。

 

女性の臨時職員を泣かせる

 

臨時職員はA主任の隣に席がありました。

 

彼女も他部署から移動してきて、制度融資などの複雑な業務を担当することになっていましたが、何もわからなかったようで隣のA主任から手取り足取り教わっていました。

 

ある時、臨時職員がミスをしてしまい、A主任に助けを求めた時のことです。

 

業務が立て込んで切羽詰まっていたのか、声を荒げてまくしたてるように臨時職員をキツく責め続けました。

 

 

その結果臨時職員は泣き出してしまい、その後課長や係長がケアをしていました。

 

私の中で、A主任という人間が「頼もしい存在」から「少し近寄りがたい存在」に変わった瞬間でした。

 

A主任のサンドバックに

 

A主任のモンスターっぷりが徐々にあらわになっていく中で、彼の火の粉を私が被るようになってきます。

 

仕事の進め方がわからずA主任に聞くと、イライラしているのか「綴りみたの!?質問の意図がわからないんだけど!?」と大声で罵倒されるのはもはや日常茶飯事でした。

 

そのような言われ方をしたら、時間をかけてじっくる調べるようになるのは当たり前の反応です。

 

だって、質問したらキレ散らかされるんですからね。

 

しかし初めての職場、綴りを見ただけで1から10までわかるほど甘くはありません。

 

手づまりな顔をしていたらしていたで「わからねーなら聞けよ!!!」と、ここでも怒鳴られる。

 

 

本当によくあるパワハラ上司のテンプレートですよね笑

 

ここまでテンプレ化されて面白がられているのに、なぜこういうタイプの人間は減らないのでしょうか、不思議で仕方がありません。

 

少し脱線しましたが、要は一日必ずどこかのタイミングで怒鳴られるようになっていきました。

 

もちろん正論を突き付けられ、自分がしっかりしないといけないなと思う時もありましたが、半分以上がA主任の気まぐれによる八つ当たりでした。

 

資料を見ながらA主任の説明を聞いていると「話聞いてるの?」と詰められ、ならばと顔を見て説明を聞いていると「資料みな?俺の顔見ても何も書いてないよ?」と嫌味を言われ。

 

今日の記事でされたことをすべて暴露したいですが、圧倒的なボリュームになってしまうので小出しにしていきます。

 

また、「仕事上のこだわり」を押し付けてくるのもA主任の特徴でした。

 

なぜか「電話を誰よりも速くとること」に命を懸けていたので、電話の音が鳴ると受話器が壊れるレベルで乱暴に電話を取っていました。

 

それを私にも要求してきて、少しでも遅いと「出るのおせえよ」とまじなトーンで私にだけキレてくる。

 

ほかの先輩からも「なんでそんなに焦って取るんだ」と叱られ、板挟み状態でした。

 

もう、何をやっても怒られるという環境に身を置くことになったのです。

 

そしてこれもパワハラ上司のあるある話ですが、「あなたができると思ってるから俺は強く言うんだ」と、罵倒することを正当化する始末でした。

 

こんな日がおよそ2か月続いたある日、ついに身体に異変が現れます。

 

ついにストレスが身体に現れる

 

毎日必ず何かにつけて怒鳴られる。

 

ほかの職員が「ちょっと言いすぎじゃないですか」と間に入ることもなく、見て見ぬふり。

 

こんな環境に毎日身を置いていたら、ストレスがたまらないはずもありません。

 

5月の連休明けからA主任の私に対する当たり方はさらに強くなっていきました。

 

電話の保留を忘れていただけで「保留押せよ!!!!!!」と大声で怒鳴られたり、「そんなに自信があるなら俺何も助けないから自分でやれば?」と子を崖から落とすようなことを言われたり。

 

自分の思い通りに私が動かなければすぐに機嫌が悪くなり、大きい声で罵倒される毎日でした。

 

5月後半のある日の朝、いつも通り起床して出勤しようと思った時のことです。

 

 

身体が起き上がらなかったのです。

 

私はその時のことをはっきりと覚えています。

 

身体が起き上がらず、気持ちもなんだかぼんやりとしていました。

 

そして、下腹部のあたりに気持ちの悪い鈍痛を覚えました。

 

食当たりのようなチクチクという痛みではありません。

 

じんわりと広がっていくような、痛いのか痛くないのかもよくわからない感じです。

 

このブログを読んでくださっている大多数の方は、「あ、あの痛みか」と共感していただけるかと思います。

 

この日は思い切って仕事を休むことにしました。

 

朝、課長に電話をし、今日は具合が悪く休みます、明日の朝イチで相談がありますと、現状を話することに決めました。

 

翌日、課長にありのままの状況を報告しました。

 

A主任がイライラすると機嫌が悪くなるというのは課長も承知していて、私に対する当たり方がきついということも気になっていたとのことでした。

 

後日、課長から指導が入ったのか、A主任の私に対する声のかけ方が多少やんわりになった気がしました。

 

1週間程度だけでしたが。

 

その後も私に対するパワハラまがいの言動は日々続いていき、秋ごろにとうとう適応障害を発症してしまうことになります。(次回に続く)

 

 

 

私が転職を決めるまで その1 ~新卒で市役所正職員に~

 

こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。

 

昨日からブログの投稿を始めました。

 

私は会計年度任用職員という地方公務員なのですが、一般的に副業が不可とされている地方公務員でありながらも、私に関しては副業が許されています。

 

私は、身分としては「パートタイムの会計年度任用職員」であるため、地方公務員法で規定されている営利企業等従事への制限」の例外扱いなのです。

 

 

そんなわけで、このように副業としてブログの執筆して収入を得ようとできたりします。

 

まあ会計年度一本だと手取り月収はなかなかよいものではないので、こんな具合がちょうどよいかなと思っています。

 

ここら辺の話はのちほどゆっくり触れるとして、今日は私の社会人生活がスタートした頃のお話をしたいと思います。

希望を胸に市役所職員に

 

私が大学を卒業して市役所に入庁したのは4年前の話です(以下、以前勤務していた市役所を「前職場」ということにします)。

 

大学では教育行政の勉強をしていたこともあり、卒業後は官公庁に勤めると決めていた私は、就活で県内の市役所の試験を片っ端から受けましたがどれもダメでした。

 

 

思うに、当時の私は「大学の勉強をだれよりも頑張っている」「奨学金を借りているのだから、必死こいて勉強しないとだめだ」「自分には市政に携わって大きなことをしたいという熱い想いがあるんだ」という、意識高い系大学生だったように思います。

 

そんな中、授業をさぼったり、なんだか「うまいぐあいに」ズルくいろいろこなしている同級生たちが就職を決め(何人か市役所もいました)、私は焦るばかりでした。

 

そんな中、秋ごろに前職場の後期募集が開始されます。

 

「公務員らしくない人材」「熱い想いを持った人材」を求めます!ということを前面に押し出した前職場の採用案内に私は胸を打たれていたように思います。

 

今となっては、ふざけんなwwって感じですけど。

 

作文試験や面接試験で、大学で頑張ったことや前職場のある自治体への「熱い想い」を思う存分ぶつけた結果、見事内定。

 

 

その後の市長講話や内定者懇談会に出席したら、「なんか体育会系だな...」と思った瞬間はあったものの、念願の市役所職員になるとあって、そちらのほうの喜びのほうが大きかったです。

 

配属先は...

 

年度末に人事異動が発表され、その際に新規採用職員の配属先もわかります。

 

私の配属先は、「産業振興課(仮名)」でした。

 

前職場のある自治体は、とにかくやる気や実績のある企業が多く、企業支援に一番力を入れているといっても過言ではないほどでした。

 

 

のちに先輩から聞いた話だと、「新卒で産業振興課に入る人間はここ数年いなかった。異動で入る人間もかなり精鋭が選ばれるのに、新卒で入るということは相当優秀だね」ということでした。

 

この言葉に私は大きなプレッシャーを感じましたが、なにはともあれ頑張るぞ!と意気込んだのでした。

 

担当業務は...

 

新人ということもあり、基本的な事務(補助金申請、届出等)が充てられましたが、市を挙げて全力で実施している事業の担当にもなりました。

 

それは、「市内企業の海外交流事業」です。

 

申請書を受理したり、審査したりするものではないので、当然マニュアルも何もありません。

 

基本的には地域の貿易推進センター等と連携をし、事業を進めていくというものでした。

 

 

たまに海外から大臣が市長を表敬訪問をしたり、逆に市長が海外へ訪問することがあるので、その際のロジづくりや旅費の支払いなども全て「海外担当」の仕事になります。

 

今でさえも「ここまで一人でやるの?」という感じを受けますので、ついこの前まで大学生だった入庁直後のペーペーにとっては「?????」という感じでした。

 

 

担当業務が決まった帰りの電車内で嗚咽を漏らしたのを今でも覚えています。

 

しかし、先ほどにも書いた先輩の言葉を思い出し、「あ、自分は期待されているんだ」と自負することで無理やりやる気を出していた気がします。

 

なぜ新人の私がこんなに大規模な事業を任せられることになったのか。

 

留学経験があり、外国語が堪能だから君ならできるのではないかと思った、と後日課長から聞かされたことがあります。

 

確かに面接のとき、「外国語で自己紹介してください」と言われてすぐにしゃべることができたことや、外国への熱い想いを面接で叫び倒したため、その点を買われたのはうなずけますが…。

 

「外国語能力と事務処理能力は決して比例するものではないのに…」と、後日思った記憶があります。

 

運命の人との出会い

 

運命の人と書きましたが、ポジティブな意味ではありません。

 

私の人生を狂わせた張本人がここで登場するのです。

 

A主任は、私の海外業務の副担当につきました。席は私の真正面です。

 

去年まで海外業務の主担当をしており、ノウハウはわかっている人でした。

 

OJTが別にいましたが、席が近いのと業務が被っていることから、実質OJTはA主任が担当している状態でした。

 

「わからないことがあっても大丈夫!いっしょにやっていこう」という言葉をかけられ、当時は不安が払しょくされたことを覚えています。

 

 

しかしこれが地獄の市役所人生の始まりでした。(続く)

 

 

 

 

全国の悩める公務員の皆さん、バツのついた皆さん、うつの皆さん、初めまして。

自己紹介

 

初めまして。ポンコツハム(@pmkthm)と申します。

 

地方自治体の会計年度職員として勤務しています。

 

ペンネームの「ハム」という言葉は、SNS界隈で「公務員」を意味します。「公」の字を分解すると「ハム」になりますからね。ポンコツは意味そのままです。つまり、私はポンコツな公務員ってなわけです。

 

 

私の役職、会計年度職員という長い名前ですが、公務員の皆さんならご存じだと思いますが一般的には耳慣れないですよね。正職員と同じく、きちんと法律(地方公務員法)に基づいた由緒正しい公務員なのですが、何点か正職員と違う点があります。

 

正職員との違いは以下ブログに詳しいですが、ざっくりいうと正職員よりかは責任が重くないがその分給与も低くなる、といったところでしょうか。

会計年度任用職員をわかりやすく解説 - 公務員ドットコム

 

なぜブログを書こうと思ったか

 

理由は単純です。私自身のつらい経験を、一人でも多くの人に読んでもらいたいのです。

 

現在は会計年度任用職員として地元の市役所に勤務していますが、私は転職を1回経験しています

 

前職は別の自治体の市役所で正職員として勤務していました。

 

市役所は異動が多く、仕事内容も税、観光、人事、農業、建設、教育などと非常に多岐にわたるものです。現在は市民窓口の部署で戸籍やマイナンバー等の業務を担当していますが、前職では産業振興という全く別の業務を担当していました。

 

なぜ、収入が多い正職員をあえて辞めてまで会計年度任用職員に転職したのか?多くの方は私の行動に対し、「もったいない」などと思うことでしょう。

 

その理由は、前の職場において、オーバーワークや度重なるパワハラ、嫌がらせを受け、適応障害を発症してしまったことがきっかけです。

 

 

適応障害については同じ職場で2度も発症していました。

 

また、私は既婚者でしたが、適応障害を発症し療養休暇を取得したことがきっかけで、配偶者と離婚もしています。

 

後ほど詳しくブログに書きますが、いろんなことがとにかくこじれ、最終的には退職という決断に至りました。

 

希望をもって正職員として入庁した職場でこてんぱんな扱いを受け病気にさせられた挙句、最愛の人間から裏切られた私は人生のどん底を味わいました。

 

退職したということはつまり収入もゼロになります。

 

理不尽極まりない現況に希望は当然見いだせず、「生きていたって何の意味もない」「首をくくって死んでしまおうか」などと考えたことは一度や二度ではありません。

 

虚しい夜が襲ってきたことも何回もあります。

 

ですが、今こうして転職をかなえ、ブログでアウトプットできているくらいには元気になっています。

 

つらい経験をしましたが、どん底から這い上がってきたという成功体験もしています。

 

私はこの経験を、同じように悩んでいるうつの方、離婚した方・協議中の方、さらに同業者の方など、様々な方に読んでいただき、自分らしく生きるためのヒントにしていただきたいのです。

 

このブログで伝えたいこと

 

私自身、先述のようにいろいろな経験をしましたが、「日本のどこかにこんなに苦しい経験をしながらも這い上がった人間がいるんだよ」ということを伝えることができればこれ以上の喜びはありません。

 

また、割と具体的なエピソードを書く予定もありますが、そのどれか一つでも「あ、私と同じだ」とか「私も同じ考えだ」と思っていただき、「私って一人じゃないんだ」という気持ちになってもらえたらなと思います。

 

特に、「公務員の仕事で何かともやもやしている方」「うつになったけど配偶者の理解が得られずに苦しい方」「今の仕事がつらいけど転職の決断ができない方」「自分は何のために生きているかわからない方」達にとっては、きっと何かの助けになると思います。

 

私は今日に至るまで本当にいろんな方に救われたと思っています。

 

今度は私が救う番だと思っていますので、どうか、困ってどうしようもないという方がいたら、ちらっとのぞいてみてください。