私が転職を決めるまで その6 ~「適応障害」をよく理解していなかった私と義実家の裏切り~
半月の療養休暇取得
妻及び義理の両親から手のひら返しされる
実家にて療養
当然、薬を飲んですぐには効果は表れませんでした。
職場からのLINEでパニック発作
私が転職を決めるまで その5 ~結婚、そして転落~
同業の女性と恋愛、そして結婚
4年目職員になったとたん、職場環境が激しく悪化
対外調整、年度末処理…オーバーワークの極み
ミスを連発し、パワハラ再開
- 朝起きられない
- 食欲が全くない
- 出勤前に嘔吐
- 突然涙が出る
- 言葉が出てこない
- 笑えない
- パソコン画面を認識できない
私が転職を決めるまで その4 ~私をいたぶる人たち~
昭和タイプの体育会系、B主任
B主任の取り巻き、C主任
C主任も、私が2度目の適応障害で倒れるまで同じ部署にいました。
A、B、C3主任によるメンタルへの悪影響
- 「とにかく何をするにも委縮するようになった」
- 「聞けばすぐ解決するような質問でも、罵倒されるのを恐れ、いくら時間がかかっても自己解決するようになった」
- 「ハラスメントまがいのことを言われ、それをため込むうちに、メンタルがマヒしてきた」
私が転職を決めるまで その3 ~1回目の適応障害発症~
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
今日は会計年度任用職員として新しい職場で初勤務の日でした。
後ほど詳しく記事にしますが、私のことを人間扱いしてくれる職場って存在したんですね、というのが素直な感想でした。
今の職場が普通なのか、前職場が異常なのかとか、いろんなことを考えてしまいますが、転職して本当によかったなということです。
前職場で2度も適応障害にさせられているのですから、こう思うのも無理はありません。
今日は、1年目の秋に適応障害になったときの話をしようと思います。
エスカレートしていくA主任からのパワハラ
5月末に体調不良を訴えたあと、1週間ほどはA主任の私に対する当たりがソフトになりました。
しかし、1週間を過ぎたころ、切羽詰まったA主任が私に以前のように八つ当たりを再開し始めると、そこから一気に私に対する当たりが強くなりました。
A主任が主担当業務のイベント手伝いでも、なぜか私ばかりが八つ当たりされたり、私に無茶振りしたりする始末。
日々繰り返される大声での叱責。
私の脳みそは次第にマヒしていったんだと思います。
こんなこともありました。
振替休日を取った日に、お構いなしに個人LINEに連絡が来たのです。
私に落ち度があったにせよ、A主任はひたすら執拗に責めて来るのでした。
そして10月に入る前、いわゆる試用期間が終わるころ、公用車で2人きりで出かける機会があったのですが、車内で次のようなことを言われたのを覚えています。
「あなたさ、試用期間終わるんだよ。いつまでお客さん気分でいるんだよ。国のキャリア官僚を目指しているあなたの同期は今頃上司に死ねとか殺すとか言われながらも歯を食いしばってるんだよ。そのくらいの想いでやっていかないとだめだよ。別にいいんだよ、淡々と仕事したって。でもそれじゃあつまらないじゃん。…」
出た。「想い」。
そして相変わらず自分の仕事観を他人に押し付けてくる感じ。
この人、正常じゃないと思うと同時に、全身から力が抜けていくのがわかりました。
A主任は数年前に霞が関に出向経験があり、周りの話だとそのころからおかしくなりだしたとのことでした。
別にここで霞が関の省庁を批判するわけではないですが、その時の同僚の「仕事に対する熱い想い(笑)」に感化され、それをそのまま現職場に持ってきてしまったようなのです。
今時、部下に「死ね」「殺す」っていう上司なんているんでしょうか。
遠回しに私にそう言いたいっていうことでしょうか。
ともかく、その火の粉を私がもろにかぶり続け、半年が過ぎようとしていたころ、私の主担当業務が立て込み始めます。
私、ついに倒れる
10月に入り、海外事業が急遽動き始めます。
市長が経済交流の名目で外国に行き、要人と面会したいといきなり言い出したため、急遽ロジなどの調整業務が入ったのです。
ロジの調整には、現地コーディネーターとの連絡調整、Wifiなどの機器レンタル、航空チケット手配、旅費支払いなどなど、とにかく多岐にわかる業務が含まれます。
もちろん、ロジなどの調整なんてやったことがないし、綴りを見ただけではスムーズに進められるわけはないですが、「あなたが担当だから」ということだけで、スムーズに仕事が進められない私はA主任をはじめ、周りから相当つつかれていました。
しかも先述の業務を主担当が一人でやらなければならないのです。
主担当がほぼワンオペで仕事を回すことになっていた、というのが前職場最大の欠点であるように思います。
同じ時期に、別に主担当業務として持っていた補助金の申請が立て込み、こちらもパンク寸前になりました。
一般的に書類の標準処理期間は1か月程度ですが、その期間を上回っていたことなんてざらでした。
それほどまでに業務がいっぱいいっぱいだった中、相変わらずA主任は、思い通りに動けない私に対して大声で罵声を浴びせ続けるのでした。
決まって二言目には、「いい!?主担当はあなただから。俺じゃないから。他人事みたいに傍観すんなよ!!!!!!!」
こういったことを日常的に浴びせられていたため、私は他人を頼ることができなくなっていったのではないかと思います。
そしてついに、身体と心に異変が現れます。
ある日の朝、尋常でないほどのだるさと、下腹部の鈍い痛みを感じました。
全く身体を起こすことができませんでした。
課長に電話で「5月の時みたいな症状が出たので休みます」と話したら、一言、「早めに医者かかれ」と言われました。
適応障害の診断下る
当時一人暮らしをしていたので、週末に実家に帰ることにしました。
両親の前で、今の心身の状態と、職場でのことについて話していたら、突然泣き崩れてしまいました。
こんなに嫌な思いをしているのに、あの職場に働きに出なければならないと思った瞬間、とてもやるせない気持ちになったのでしょう。
明らかに心に異常をきたしているため、メンタルクリニックを待たず1週間年休をもらうことにしました。
定期的に課長と連絡を取り合う中で、あの職場に戻るのであれば、A主任と一切かかわらない状況にしてもらいたいことを話しました。
その結果、「A主任とペアの仕事(海外担当など)は担当から外す」「A主任から離れた席に席替えする」ことになり、職場の環境調整が行われたのでした。
後日、メンタルクリニックを受信したら、適応障害と診断されました。
環境調整がなされたので、この時は療養休暇を取得しませんでした。
今考えれば、取得してしまったほうが良かったかもしれませんが。
こうして、私は、市役所入庁半年で先輩職員のパワハラが原因で適応障害を発症したのです。
環境調整をしてもらい、A主任とかかわることもほぼなくなり、業務も無理のない範囲で進めていましたが、この後、さらに心に負担をかけてくる人間たちが現れるのです。(続く)
私が転職を決めるまで その2 ~はじめて体調不良で仕事を休んだ日~
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
実をいうと私はまだ新しい職場に入庁していません。
明日付けでの採用になるからです。
約半年ぶりに仕事をするとあってかなり緊張しています。
転職経験のある方には共感していただけるのではないでしょうか。
今日は明日からの社会人生活に向けて精神統一をする一日となるでしょう。
新しい職場で仕事を始めた最初の数か月は緊張との戦いです。
前職場でも、最初の数か月(というよりもやめるまでずっと)は緊張しっぱなしの状態が続きました。
今日は、前職場に入庁してから最初の2~3か月に起こった話をしたいと思います。
優しかったA主任が豹変するとき
私の前の席に座っていたA主任の第一印象は、「頼もしい先輩」でした。
私が困っているそぶりを見せると、アンテナを張り巡らせ、すぐに声をかけてくれました。
外に出る用事がある際は同行してくれ、公用車の中で役所のいろいろな話を教えてくれました。
定時のチャイムが鳴ると「特に何も立て込んでなければ帰って大丈夫だよ!」と声をかけてくれました。
私にとってはA主任はとても頼れる存在で、「ああ、この人が同じ職場にいてよかったな」と思ったものでした。
基本的には困ったときに助けてくれるいい人だったのです。
平常時は。
しかし彼には決定的な欠点がありました。
A主任はかなりの気分屋で、自分が切羽詰まっているとたちまち機嫌が悪くなる人でした。
上から仕事を押し付けられてせかされたりしたときや、オーバーワーク気味になってくると、目つきが変わり、乱暴な独り言が多くなりました。
「何だよクソ」「死ねよ」という独り言を漏らし始めるので、同じ島の空気が悪くなりました。
このようにただ機嫌が悪くなるだけならいいのですが、それを周囲の人間に八つ当たりするのです。
それも、八つ当たりしやすい人間を選んで。
八つ当たりしやすい人間とは誰でしょうか。
それは、私のような下っ端や女性の臨時職員でした。
A主任は、とにかく立場の弱い者を選び、八つ当たりしたり罵声を浴びせたりする、典型的なパワハラタイプの人間でした。
女性の臨時職員を泣かせる
臨時職員はA主任の隣に席がありました。
彼女も他部署から移動してきて、制度融資などの複雑な業務を担当することになっていましたが、何もわからなかったようで隣のA主任から手取り足取り教わっていました。
ある時、臨時職員がミスをしてしまい、A主任に助けを求めた時のことです。
業務が立て込んで切羽詰まっていたのか、声を荒げてまくしたてるように臨時職員をキツく責め続けました。
その結果臨時職員は泣き出してしまい、その後課長や係長がケアをしていました。
私の中で、A主任という人間が「頼もしい存在」から「少し近寄りがたい存在」に変わった瞬間でした。
A主任のサンドバックに
A主任のモンスターっぷりが徐々にあらわになっていく中で、彼の火の粉を私が被るようになってきます。
仕事の進め方がわからずA主任に聞くと、イライラしているのか「綴りみたの!?質問の意図がわからないんだけど!?」と大声で罵倒されるのはもはや日常茶飯事でした。
そのような言われ方をしたら、時間をかけてじっくる調べるようになるのは当たり前の反応です。
だって、質問したらキレ散らかされるんですからね。
しかし初めての職場、綴りを見ただけで1から10までわかるほど甘くはありません。
手づまりな顔をしていたらしていたで「わからねーなら聞けよ!!!」と、ここでも怒鳴られる。
本当によくあるパワハラ上司のテンプレートですよね笑
ここまでテンプレ化されて面白がられているのに、なぜこういうタイプの人間は減らないのでしょうか、不思議で仕方がありません。
少し脱線しましたが、要は一日必ずどこかのタイミングで怒鳴られるようになっていきました。
もちろん正論を突き付けられ、自分がしっかりしないといけないなと思う時もありましたが、半分以上がA主任の気まぐれによる八つ当たりでした。
資料を見ながらA主任の説明を聞いていると「話聞いてるの?」と詰められ、ならばと顔を見て説明を聞いていると「資料みな?俺の顔見ても何も書いてないよ?」と嫌味を言われ。
今日の記事でされたことをすべて暴露したいですが、圧倒的なボリュームになってしまうので小出しにしていきます。
また、「仕事上のこだわり」を押し付けてくるのもA主任の特徴でした。
なぜか「電話を誰よりも速くとること」に命を懸けていたので、電話の音が鳴ると受話器が壊れるレベルで乱暴に電話を取っていました。
それを私にも要求してきて、少しでも遅いと「出るのおせえよ」とまじなトーンで私にだけキレてくる。
ほかの先輩からも「なんでそんなに焦って取るんだ」と叱られ、板挟み状態でした。
もう、何をやっても怒られるという環境に身を置くことになったのです。
そしてこれもパワハラ上司のあるある話ですが、「あなたができると思ってるから俺は強く言うんだ」と、罵倒することを正当化する始末でした。
こんな日がおよそ2か月続いたある日、ついに身体に異変が現れます。
ついにストレスが身体に現れる
毎日必ず何かにつけて怒鳴られる。
ほかの職員が「ちょっと言いすぎじゃないですか」と間に入ることもなく、見て見ぬふり。
こんな環境に毎日身を置いていたら、ストレスがたまらないはずもありません。
5月の連休明けからA主任の私に対する当たり方はさらに強くなっていきました。
電話の保留を忘れていただけで「保留押せよ!!!!!!」と大声で怒鳴られたり、「そんなに自信があるなら俺何も助けないから自分でやれば?」と子を崖から落とすようなことを言われたり。
自分の思い通りに私が動かなければすぐに機嫌が悪くなり、大きい声で罵倒される毎日でした。
5月後半のある日の朝、いつも通り起床して出勤しようと思った時のことです。
身体が起き上がらなかったのです。
私はその時のことをはっきりと覚えています。
身体が起き上がらず、気持ちもなんだかぼんやりとしていました。
そして、下腹部のあたりに気持ちの悪い鈍痛を覚えました。
食当たりのようなチクチクという痛みではありません。
じんわりと広がっていくような、痛いのか痛くないのかもよくわからない感じです。
このブログを読んでくださっている大多数の方は、「あ、あの痛みか」と共感していただけるかと思います。
この日は思い切って仕事を休むことにしました。
朝、課長に電話をし、今日は具合が悪く休みます、明日の朝イチで相談がありますと、現状を話することに決めました。
翌日、課長にありのままの状況を報告しました。
A主任がイライラすると機嫌が悪くなるというのは課長も承知していて、私に対する当たり方がきついということも気になっていたとのことでした。
後日、課長から指導が入ったのか、A主任の私に対する声のかけ方が多少やんわりになった気がしました。
1週間程度だけでしたが。
その後も私に対するパワハラまがいの言動は日々続いていき、秋ごろにとうとう適応障害を発症してしまうことになります。(次回に続く)
私が転職を決めるまで その1 ~新卒で市役所正職員に~
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
昨日からブログの投稿を始めました。
私は会計年度任用職員という地方公務員なのですが、一般的に副業が不可とされている地方公務員でありながらも、私に関しては副業が許されています。
私は、身分としては「パートタイムの会計年度任用職員」であるため、地方公務員法で規定されている「営利企業等従事への制限」の例外扱いなのです。
そんなわけで、このように副業としてブログの執筆して収入を得ようとできたりします。
まあ会計年度一本だと手取り月収はなかなかよいものではないので、こんな具合がちょうどよいかなと思っています。
ここら辺の話はのちほどゆっくり触れるとして、今日は私の社会人生活がスタートした頃のお話をしたいと思います。
希望を胸に市役所職員に
私が大学を卒業して市役所に入庁したのは4年前の話です(以下、以前勤務していた市役所を「前職場」ということにします)。
大学では教育行政の勉強をしていたこともあり、卒業後は官公庁に勤めると決めていた私は、就活で県内の市役所の試験を片っ端から受けましたがどれもダメでした。
思うに、当時の私は「大学の勉強をだれよりも頑張っている」「奨学金を借りているのだから、必死こいて勉強しないとだめだ」「自分には市政に携わって大きなことをしたいという熱い想いがあるんだ」という、意識高い系大学生だったように思います。
そんな中、授業をさぼったり、なんだか「うまいぐあいに」ズルくいろいろこなしている同級生たちが就職を決め(何人か市役所もいました)、私は焦るばかりでした。
そんな中、秋ごろに前職場の後期募集が開始されます。
「公務員らしくない人材」「熱い想いを持った人材」を求めます!ということを前面に押し出した前職場の採用案内に私は胸を打たれていたように思います。
今となっては、ふざけんなwwって感じですけど。
作文試験や面接試験で、大学で頑張ったことや前職場のある自治体への「熱い想い」を思う存分ぶつけた結果、見事内定。
その後の市長講話や内定者懇談会に出席したら、「なんか体育会系だな...」と思った瞬間はあったものの、念願の市役所職員になるとあって、そちらのほうの喜びのほうが大きかったです。
配属先は...
年度末に人事異動が発表され、その際に新規採用職員の配属先もわかります。
私の配属先は、「産業振興課(仮名)」でした。
前職場のある自治体は、とにかくやる気や実績のある企業が多く、企業支援に一番力を入れているといっても過言ではないほどでした。
のちに先輩から聞いた話だと、「新卒で産業振興課に入る人間はここ数年いなかった。異動で入る人間もかなり精鋭が選ばれるのに、新卒で入るということは相当優秀だね」ということでした。
この言葉に私は大きなプレッシャーを感じましたが、なにはともあれ頑張るぞ!と意気込んだのでした。
担当業務は...
新人ということもあり、基本的な事務(補助金申請、届出等)が充てられましたが、市を挙げて全力で実施している事業の担当にもなりました。
それは、「市内企業の海外交流事業」です。
申請書を受理したり、審査したりするものではないので、当然マニュアルも何もありません。
基本的には地域の貿易推進センター等と連携をし、事業を進めていくというものでした。
たまに海外から大臣が市長を表敬訪問をしたり、逆に市長が海外へ訪問することがあるので、その際のロジづくりや旅費の支払いなども全て「海外担当」の仕事になります。
今でさえも「ここまで一人でやるの?」という感じを受けますので、ついこの前まで大学生だった入庁直後のペーペーにとっては「?????」という感じでした。
担当業務が決まった帰りの電車内で嗚咽を漏らしたのを今でも覚えています。
しかし、先ほどにも書いた先輩の言葉を思い出し、「あ、自分は期待されているんだ」と自負することで無理やりやる気を出していた気がします。
なぜ新人の私がこんなに大規模な事業を任せられることになったのか。
留学経験があり、外国語が堪能だから君ならできるのではないかと思った、と後日課長から聞かされたことがあります。
確かに面接のとき、「外国語で自己紹介してください」と言われてすぐにしゃべることができたことや、外国への熱い想いを面接で叫び倒したため、その点を買われたのはうなずけますが…。
「外国語能力と事務処理能力は決して比例するものではないのに…」と、後日思った記憶があります。
運命の人との出会い
運命の人と書きましたが、ポジティブな意味ではありません。
私の人生を狂わせた張本人がここで登場するのです。
A主任は、私の海外業務の副担当につきました。席は私の真正面です。
去年まで海外業務の主担当をしており、ノウハウはわかっている人でした。
OJTが別にいましたが、席が近いのと業務が被っていることから、実質OJTはA主任が担当している状態でした。
「わからないことがあっても大丈夫!いっしょにやっていこう」という言葉をかけられ、当時は不安が払しょくされたことを覚えています。
しかしこれが地獄の市役所人生の始まりでした。(続く)
全国の悩める公務員の皆さん、バツのついた皆さん、うつの皆さん、初めまして。
自己紹介
初めまして。ポンコツハム(@pmkthm)と申します。
某地方自治体の会計年度職員として勤務しています。
ペンネームの「ハム」という言葉は、SNS界隈で「公務員」を意味します。「公」の字を分解すると「ハム」になりますからね。ポンコツは意味そのままです。つまり、私はポンコツな公務員ってなわけです。
私の役職、会計年度職員という長い名前ですが、公務員の皆さんならご存じだと思いますが一般的には耳慣れないですよね。正職員と同じく、きちんと法律(地方公務員法)に基づいた由緒正しい公務員なのですが、何点か正職員と違う点があります。
正職員との違いは以下ブログに詳しいですが、ざっくりいうと正職員よりかは責任が重くないがその分給与も低くなる、といったところでしょうか。
なぜブログを書こうと思ったか
理由は単純です。私自身のつらい経験を、一人でも多くの人に読んでもらいたいのです。
現在は会計年度任用職員として地元の市役所に勤務していますが、私は転職を1回経験しています。
前職は別の自治体の市役所で正職員として勤務していました。
市役所は異動が多く、仕事内容も税、観光、人事、農業、建設、教育などと非常に多岐にわたるものです。現在は市民窓口の部署で戸籍やマイナンバー等の業務を担当していますが、前職では産業振興という全く別の業務を担当していました。
なぜ、収入が多い正職員をあえて辞めてまで会計年度任用職員に転職したのか?多くの方は私の行動に対し、「もったいない」などと思うことでしょう。
その理由は、前の職場において、オーバーワークや度重なるパワハラ、嫌がらせを受け、適応障害を発症してしまったことがきっかけです。
適応障害については同じ職場で2度も発症していました。
また、私は既婚者でしたが、適応障害を発症し療養休暇を取得したことがきっかけで、配偶者と離婚もしています。
後ほど詳しくブログに書きますが、いろんなことがとにかくこじれ、最終的には退職という決断に至りました。
希望をもって正職員として入庁した職場でこてんぱんな扱いを受け病気にさせられた挙句、最愛の人間から裏切られた私は人生のどん底を味わいました。
退職したということはつまり収入もゼロになります。
理不尽極まりない現況に希望は当然見いだせず、「生きていたって何の意味もない」「首をくくって死んでしまおうか」などと考えたことは一度や二度ではありません。
虚しい夜が襲ってきたことも何回もあります。
ですが、今こうして転職をかなえ、ブログでアウトプットできているくらいには元気になっています。
つらい経験をしましたが、どん底から這い上がってきたという成功体験もしています。
私はこの経験を、同じように悩んでいるうつの方、離婚した方・協議中の方、さらに同業者の方など、様々な方に読んでいただき、自分らしく生きるためのヒントにしていただきたいのです。
このブログで伝えたいこと
私自身、先述のようにいろいろな経験をしましたが、「日本のどこかにこんなに苦しい経験をしながらも這い上がった人間がいるんだよ」ということを伝えることができればこれ以上の喜びはありません。
また、割と具体的なエピソードを書く予定もありますが、そのどれか一つでも「あ、私と同じだ」とか「私も同じ考えだ」と思っていただき、「私って一人じゃないんだ」という気持ちになってもらえたらなと思います。
特に、「公務員の仕事で何かともやもやしている方」「うつになったけど配偶者の理解が得られずに苦しい方」「今の仕事がつらいけど転職の決断ができない方」「自分は何のために生きているかわからない方」達にとっては、きっと何かの助けになると思います。
私は今日に至るまで本当にいろんな方に救われたと思っています。
今度は私が救う番だと思っていますので、どうか、困ってどうしようもないという方がいたら、ちらっとのぞいてみてください。