私が転職を決めるまで その12 ~何かをつかんだその果てに~(サポートステーションとの出会い編)

 

こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。

 

拙ブログを開始して半年近くが経過しようとしています。

 

どうやったら収益が上がるのでしょうか??

 

Twitterでフォロワーを獲得するだけでは一過性の効果しかないのだろうか?と思ってしまいます。

 

検索エンジンで「適応障害 公務員」と打ったら上位に出てくるくらいじゃないとだめなんですね。

 

そうなるためには愚直に頑張るしかないですね。

 

「継続は力なり」といいますし、まぁゆるりと頑張ってみましょうかね。

 

以前も紹介させていただきましたが、私はブログ執筆にあたりこちらの書籍を参考にしています。

 

これからブログをはじめてみようという方はぜひ参考になさってはいかがでしょうか?

 

私もこれを1日で読み、その日のうちにブログを開設しました。

 

 

 

さて今日は、前回までシリーズでお送りしていた「私が転職を決めるまで」のこのコーナー、今までどんよりと重く暗い話が続いていましたが、ついに転職の決断に至り、今日の私につながるまでのお話になります。

 

前回までのお話はこちら👇

 

pnkthm.hatenablog.com

 

 

「自己肯定感」を高めるために実践したこと

 

私は退職及び離婚が決まった後、今まで味わったことのない虚しさを味わいました。

 

その中で、また上へあがるために必要なことがわかりました。

 

それは、「殺された自己肯定感を取り戻すこと」でした。

 

上へあがる、すなわち、この実質ニートの状態から、また働ける状態に自分を戻すために。

 

社会復帰がいつになるかはわかりません。

 

ひょっとしたら、3か月先、1年先、はたまた10年以上先かもしれません。

 

でも、せっかくつかんだものがあるのですから、やってみようと思いました。

 

 

私の自己肯定感が失われていた当時の状態を分析すると、私は以下のマイナス要素をかかえていたように思います。

 

  • 対人関係のトラウマ
  • 自分自身に価値がないのではないかという不安

 

対人関係のトラウマは、前職場で形成されたものでしょう。

 

私が何か言うとキレられ、罵倒されていた日々を過ごしていたからです。

 

「では何も言わなければいいのではないか」と思えば思うほど口ごもるようになり、プライベートでは口が達者になるのですが、いざ仕事となると全く自分の意見を言えませんでした。

 

そんな状態で、誰かと意思疎通を図らなければならない仕事という行為そのものを行うことなんてできるわけがありません。

 

この辺りを克服しないと、社会復帰にあたって前に進めないと思いました。

 

サポートステーションとの出会い

 

私は、社会復帰にあたり、情報収集を行いました。

 

その中で一番最初に出てきたのが、サポートステーション(通称サポステ)でした。

 

サポートステーションとは、国委託で、働くために一歩踏み出したい15歳~49歳の若者を支援する支援機関です。

 

サポステのホームページがより詳しいので参考になさってください。

 

saposute-net.mhlw.go.jp

 

社会復帰するにあたり、具体的にこうすればいいんだということがわかっていれば、苦労はしません。

 

自分は定年まで安定で働くと思っていた中で予想外の出来事があり、職を失ったわけなので、なにをどうすればよいのか全くわからないわけです。

 

そんな漠然とした不安にも、サポステは寄り添ってくれるのです。

 

サポステに連絡を入れ、話だけでも聞きたいとのことで職員さんと面談の時間を取ることができました。

 

後日、私が住んでいる町のサポステに行き、例のように私はこれまでの顛末をすべて話しました。

 

こんなことがあり、働くこと、他人とのコミュニケーションが恐怖です。

 

私は今、心理的に大きな障壁があるような気がしています。

 

どうすればいいでしょうか?と。

 

 

職員の方は、定期的なカウンセリングを行ってくれる旨を教えてくださったほか、サポステ内でやっているセミナーの紹介をしてくださいました。

 

そのセミナーの一つが、私がかかえていた「対人関係のコミュニケーションの不安」を克服する大きな大きな一歩となったのです。

 

私が変わった(というより、自信を取り戻した)コミュニケーションセミナー

 

サポステの職員の方に、私は「とにかく職場の人間関係がトラウマで、その不安を払しょくしたいんです」という旨を強く伝えました。

 

すると、職員の方から案内されたのは、「コミュニケーションセミナー」というセミナーでした。

 

内容としては、司会業などのコンサルを行う外部の会社の方を講師としてお招きし、社会で必要なコミュニケーションのスキルを養成する、というものでした。

 

2つ返事で受講することにし、全6回のセミナーの初回に早速参加しました。

 

初回参加者は講師の先生との面談があるとのことで、私は現在抱えている困り感をお話ししました。

 

前職場でとにかく人間関係の構築に苦労したこと。

 

何を言われるか怖く、コミュニケーションの際に自信が持てないこと。

 

講師の先生は、そんな私を次のように分析してくださいました。

 

「職場の先輩に対し負の感情を抱えてしまうのですね。ですからそれが声のトーンにも表れてしまって、相手に悪い印象を与えてしまっていたかもしれません。でも、これはトレーニング次第で絶対に変わります。トレーニングし、自信をつけることで、それは確実に自分のものになります。声色一つだけでも、相手が受ける印象は大きく変わるものなのですよ。」

 

私はそれを言われたときにハッとしました。

 

確かにそうだ、と思いました。

 

だからといって、パワハラの類は許されるものではありませんが、ストレスの影響で私から愛嬌というものが消え去っていたということなんだなと思いました。

 

不思議なことに、それを言われた時に、講師の方から自分のことを否定された気持ちにはなりませんでした。

 

むしろ、課題とこれからやるべきことがはっきりしたので、やったるぞ!という気持ちになりました。

 

 

私は全力でセミナーに参加することにしました。

 

サポステのセミナーで得たもの

 

セミナーでは、コミュニケーションに必要な初歩の初歩から、声を出すことで実践する時間があります。

 

発声法、滑舌、相槌、否定しない話の聞き方などなど…

 

参加者は皆同じ困り感を抱えており、その点では「参加者全員で自分たちの課題を克服しよう!」という空気が醸成されていました。

 

コミュニケーションの実践を通し、毎回和気藹々とした雰囲気でセミナーは終了しました。

 

セミナー終了後は、参加者一人一人に対し講師の方からのフィードバックの時間がありました。

 

全6回の中で、毎回講師の方と「セミナーの中で気付いたこと」を自分の言葉でアウトプットするのです。

 

それに対し、講師の方が「その気づきは何につながるのか」などをフィードバックしてくださる時間でした。

 

そこで講師の方が言うには、セミナーだけで終わりにせず、日頃からぜひ実践をしてください」とのことでした。

 

私はサポステの外でも、会う人会う人にセミナーで得たノウハウを実践しました。

 

すっかり行きつけになった居酒屋のスタッフや常連さん、初対面のお客さんに対して。

 

久しぶりに会うことになった友達に対して。

 

全ては社会復帰するにあたって人間関係のトラウマを克服するために、私はとにかく動きました。

 

 

そして、セミナーを全て終え、フィードバックなどもいただき、日頃の実践を重ねていったことで、私は以下の知見を得たと思っています。

 

・自分の振る舞い方次第で相手の反応は変わってくるということ

・会話の始まりや呼びかけの際、必ず相手の名前を呼んであげること

・人と打ち解けるためにはとにかく相手の話をうるさいくらい相槌を打ちながら聞いてあげること

 

上の3点を実践するだけで、初対面の方と話す際も、壁が次第に取れてくることがわかるのです。

 

また、これは、自信を新たに「得た」というより、「取り戻した」という感覚が近いかもしれません。

 

私はもともと、他人とのコミュニケーションが苦ではなかったはずでした。

 

中学、高校、大学と、人間関係で悩むことはまずありませんでした。

 

それが社会に出て、前職場に就職した結果自己肯定感をズタズタに切り裂かれ、その後結婚及び離婚を経験したことで壊滅的な状態になってしまったのでした。

 

私は、そこで「私はもともとできる人間だったんだ。私にはそれを取り戻すリカバリー力があるじゃないか!」と言う、新たな気づきを得たのでした。

 

さて、自己肯定感を着実に取り戻し、リカバリー力があるということもわかった私は、さらに上を目指していくことになります。(続く)

 

 

 

おひさしぶりです。

おひさしぶりです。

 

すっかり更新が滞っておりました。

 

およそ半年間、ブログ執筆をお休みしていました。

 

理由は、現職場の正職員受験勉強のためです。

 

筆記試験の勉強のために、仕事以外の時間を割かなければなりませんでした。

 

大学生でも、公務員試験勉強は前年の夏休みころから始める(しかもいいかげんなやつは講義をさぼってまで…)中で、ワタシは仕事をしながらの試験対策だったため、ブログ執筆の余裕などないわけです。

 

肝心の結果は、不合格でした。

 

厳密にいうと、筆記試験はパスしました。

 

そのあとの面接で不合格でした。

 

いくら現職場で現在進行形で働いていても、競争試験の点数のみで判断されてしまうのか…と思いましたが、法律でちゃんと決められてることですので文句は言えません。

 

来年、また受けるしかありません!!

 

前を向きます!!

 

あと1年現職場で働き続けることで、「どうやったら面接が突破できるのか」ということも見えてくるかもしれませんしね!!

 

というわけで。本ブログいよいよ再開です。

 

前のお話の続きから始めようと思いますが、それは次回ということで!

私が転職を決めるまで その11 ~社会復帰のために、私が取り戻さなければならないもの~

 
 
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
 
 
なかなか毎日更新というわけにはゆきません。
 
 
先週はとても久しぶりに5連勤したので、週末に疲れがどっと出てしまいました。
 
 
働く気持ちは満々なんですが、身体がなかなかついてきませんね。
 
 

 
 
身体が鈍るってこういうことなんだなと感じています。
 
 
さて今日は、退職願と離婚届を提出してからのお話です。
 
 
前回のお話はこちら👇
 

淡々と手続きは踏んだものの

 
 
退職願を出したことで職場と縁が切れる目処がつき、さらに離婚届を出したことで前妻とその家との縁が完全に切れました。
 
 
その日、前職場から帰ってくる車の中から見える景色は全くちがいました。
 
 
「ようやく、抜け出せるかもわからなかった地獄の日々からこれで抜け出せるんだ」という気持ちでいっぱいでした。
 
 
少なくとも昼間はそんな気持ちでした。
 
 
しかし、厄介なのは夜でした。
 
 
もともと適応障害で精神的に不安定だということもあり、夜はなんとも言えないほど虚しい気持ちになり、沈むのでした。
 

 
もう嫌な人間とは縁を切れるんだ、という気持ちとは別に、「自分はここまで頑張ってきたのに、こんな結末なんだ」と、周りと比べてはいままで頑張ってきたことと結果が全く見合っていない現状を嘆くばかりでした。
 
 
虚しいので、毎晩のように街に繰り出しては、朝まで飲むという不健康な日々を送ったこともありました。
 
 
もっとも、酒の力だけでは虚しさなんてはれませんでしたけれど。

 
 

自分に今ないものってなんだろう?

 
 
虚しい日々の中で、そんなことを何度も考えていた結果、私自身にはあるものがなくなっていることに気がつきました。
 
 
それは、「自己肯定感」です。
 
 
正しくは、「もともとあったけど、劣悪な環境の中で自己肯定感が殺された」という言い方になるでしょう。
 
 
私は、今でこそ前職場が嫌いですが、入庁当初は夢と希望を抱いていました。
 
 
「私の良さを認めて採用してくれたこの職場で、自分は頑張るぞ!」と思っていました。
 
 
しかしその自己肯定感や自信は粉々に打ち砕かれました。
 
 
結婚もそうでした。
 
 
やっと、私の良さを認めてくれる人が現れた!
 
 
私が世界で一番幸せだ!と思ったこともありました。
 
 
恋愛や結婚生活のおかげで、ストレスフルだった仕事もなんとか乗り切れるようにもなっていました。
 
 
それは、大事な人を守るとか、大事な人から愛されているとかいう自己肯定感に強く支えられたからなんだなと感じています。
 
 
適応障害になり、離婚、退職となった今、私を支えていた自己肯定感の二本柱はどちらもポッキリ折れてしまっていました。
 

 
 
自己肯定感が喪失すると、なかなか厄介なものでした。
 
 
ひたすらに虚しくなるし、ひたすらに自分を責める夜がやってきます。
 
 
今だから「あの時は自己肯定感がなかったんだ」と振り返ることができますが、その当時は「なんで私はこんな運命を歩まなければならないんだ、何か悪さしたか?何か過ちを犯したか?」という思考回路になることしかありませんでした。
 
 
自分にとって邪悪なものをスッパリ断ち切って、寛解までまた一歩近づいたかと思いきや、またどん底に突き落とされた気分になるのでした。
 

 

それでもどん底には何かが落ちていた

 
 
自己肯定感が殺され、どん底な気分を味わっていた私は、自分のInstagramのアカウントに意味深な投稿をしたことがありました。
 
 
一見すると「私はこれから自殺します」というメッセージを込められていると解釈されてもおかしくないような書き方だったと思います。
 
 
追い込まれすぎててネガティブになっていたんでしょう。
 
 
それを見て「何があったの」とDMを送ってくれたのは、中学時代の友人でした。
 
 
それも、一人ではありませんでした。
 
 
「ごめんね、別に死のうと思ってるわけじゃないんだけど、いろいろあってね」から始まり、一気に食事の約束が3件くらい決まった日がありました。
 
 
職場と家庭で完全に居場所を失うと、本来自分の周りにいた人たちのことさえも見えなくなってしまうから恐ろしいです。
 
 
私には古くからの友達がちゃんといたのでした。
 
 
また、私は虚しい夜を朝まで飲んで過ごすなんてこともあったと先ほど書きました。
 
 
(本当は服薬中の飲酒ってあんまりよくないのですが、、これを書いている現在経過が良いのでよしとします。ただ、おすすめはしません!笑)
 
 
一軒、お客さんに対してスタッフさんがとてもフレンドリーな接客をしてくれるお店があったので、そこに通い詰めていました。
 
 
そこはスタッフさんだけではなく、常連のお客さんもみんなフレンドリーでした。
 

 
私がその店に一番最初に飲みに行った日は、スタッフさんと常連さん曰く「全く覇気がなかった」とのことでした。
 
 
その日に、私は今の状況をすべて話したのです。
 
 
仕事のストレスが原因でうつっぽくなって、仕事を休んでいること。
 
 
それが原因で、奥さんと離婚したこと。
 
 
今とても虚しいのでとりあえず飲んで気を紛らわせていること。
 
 
別に、「そんなの大したことない。元気出してよ」なんてことは言われません。
 
 
スタッフさんはただただ私の話を聞き、私を客として、価値ある人間と見て接してくれていました。
 
 
私はそれが店員と客の関係の上で成り立っていることは承知の上でも、それでもとてもうれしかったのです。
 
 
居心地が良くなった私は、以後も定期的にそのお店に通っては飲み、初めて会う人に身の上話をしたりして、楽しい時間を過ごしました。
 
 
そのうちにそのお店に飲みに行くのが一つの楽しみになっていました。
 

 
これは、お酒を飲んで気分が高揚するというのも一つの作用だと思いますが、それ以前に「私」という存在が存在価値を認められ、居場所を見つけることができたが故の心情の変化だと思っています。
 
 
私は今でもこの節目を大事にしています。
 
 
そして、改めて、自分が元気になり、社会復帰していくために必要なものが「自己肯定感」なんだなということがハッキリわかりました。
 
 
私にやることは見えていました。
 
 
それは「殺された自己肯定感を復活させること」でした。(続く)

私が転職を決めるまで その10 ~ついに、退職の決断~

 

こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。

 

今日で1週間が終わります。

 

今週は本格的に現場に出たりと、心も身体も消耗する1週間でした。

 

そのため、「毎日更新する!」と意気込んでいた拙ブログも、更新が滞ってしまっていました。

 

 

まぁそれはそれで仕方ないと割り切ります。

 

ゆっくり体力をつけていき、毎日ブログを書ける余裕が出てきたらまたやればよいのです。

 

適応障害からカムバックしたんだから、これくらいならできると意気込みます。

 

さて今日は、遠出から帰ってきてメンタルがある程度回復し、「決断力」が戻ってきてから、具体的にもろもろの話を進めっていったお話です。

 

前回のお話はこちら👇

 

pnkthm.hatenablog.com

 

次に進もう

 

1週間の北海道旅行から帰ってきた私は、以下の3点を進めていく決断をしました。

 

・別居中の妻と離婚する

 

・離婚というタイミングに合わせ、退職願を書く

 

・来年4月復職をめどに、ゆっくり休む

 

離婚については、別居を続けるにせよ関係を終えるにせよ「もうあの家には戻りたくない」という気持ちが日に日に強くなっていっていましたので、それ以外の結論に落ち着くということが考えられませんでした。

 

改めて義実家を訪問し、妻本人とその両親に、筋を通す意味でも改めて話をしに行きました。すると、

 

「もう話はついているはずです。さっさと離婚届を作ってください。そして、2人の共通費用もろもろを返戻してください。」

 

とだけ言われ、後日私の荷物をすべて引き上げ、物理的には完全にお別れを果たしました。

 

離婚届は妻の実家がある自治体(私の前職場ですw)に出さなきゃいけないのに、別自治体に住む私が準備し、それを妻実家に郵送し、書いてもらった後に郵送してもらい、私が出しに行くという3度手間4度手間もかかるような手続きを経て(妻側が用意しろという話ですが。そうすれば手続きは一度で済んだはず。まあ相変わらずいろいろ筋が通ってない人たちでした)、10月半ばに離婚届を提出しました。

 

 

共通費用の返戻分は即日振込みました。

 

清算は前妻がしてくれて、私は一切チェックしていませんが、まぁ仮に額が多かったとしても手切れ金と思えばなんてことないと思い、額面通り支払いました。

 

これで完全に関係がすっぱり切れました。

 

私の戸籍の付票に、ついにバツが付きました。

 

さて次は退職願の提出です。

 

離婚と同時に「もうこの町には住めない」という考えに至ったので、退職の決断は必然的でした。

 

それは、「仮に部署異動してもらっても勤続は無理だ」という意味にもなります。

 

それもあるし、第一に私をいたぶりまくり、適応障害に追い込んだ人間がいる職場にて、無理してでも働き続ける必要があるでしょうか??

 

私は離婚届を出したその足で、課長に退職願を提出しに行きました。

 

先ほど離婚届を提出してきたという話もしました。

 

「仮に引き留めがあったらどうする?」と聞かれたので、

 

「逆の立場で考えてください。この町では気まずくて仕事できません。」と言ったら、

 

「確かに。それは俺も嫌だ」と言われました。

 

退職願は即日受理され、1か月後には受理通知が自宅に届きました。

 

有給をすべて使っての退職だったので、退職は12月初旬付けでした。

 

私は晴れて「バツニート」となりました。

 

「本当の安定って何か?」を考えた

 

私は、市役所の正職員として仕事をしていました。

 

世間的には、耳にタコができるほど「安定、安定」と叫ばれる職種です。

 

合コンなんかでも「地方公務員」というと人気らしいです。

 

クレジットカードやローンの審査も通りやすいですしね。

 

淡々と仕事をしていれば(いや、仕事しなくても席にいれば)、お金は支払われます。

 

それだけならば本当の意味で安定でしょう。

 

しかし私は「退職」という決断をしました。

 

それはなぜか。

 

「生活の安定」「お金の安定」「ステータスの安定」以前に、「心の安定」が保たれなければ、何の意味もないと思ったからです。

 

 

前職場の部課長級の表情を見ればわかります。

 

「安定」という目に見えない称号にしがみついた挙句脳みそがバグり、アンドロイドのように仕事をしています。

 

私はそんな風には絶対になりたくないとも思いました。

 

そして繰り返しになりますが、「心の安定」や「自己肯定感」といったものを積極的に殺しにかかってくる人間とはキレイさっぱりお別れしたいと思ったからです。

 


www.youtube.com

 

私が昔から好きなバンドが、こういった時の心情をシンプルに歌っていました。

 

本当の安定とは、「心の安定」だと思います。

 

いくら福利厚生がしっかりしていたって、いくら働き続ければ自動的に給料が上がるからって、いくらさぼっても給料が減らないからって、「心の安定」を犠牲にしてまでそこにしがみつく生き方を、私は肯定できません。

 

私は、法律に基づいて仕事をする公務員という仕事が割と好きでした。

 

ですがこの時は、「公務員なんてもういいや」と思っていました。

 

再就職先のことなんて考えず、ただただ目の前の時間を過ごすことにしました。

 

私は、前職場でズタズタにされてしまった「自己肯定感」を取り戻すために、いろんな行動を起こし始めます。(続く)

 

私が転職を決めるまで その9 ~よく休み、よく遊べ~

 
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
 
1週間が終わりました。
 
ブログをご覧の皆さん、お疲れ様でした!
 
私は先週は3日間、今週は年休を一日取ったので4日間の出勤でした。
 
いきなり週5フルで出勤ではなく徐々に徐々に増やしていけているので、社会復帰一発目の働き方としては理想的かなと思います。
 
来週から週5フルになりますが、無理せずに出勤したいと思います。
 
さて今回は、妻と別居してから気分が晴れない日々を過ごしていた先に、気分が挽回する出来事があったというお話です。
 

薬を飲んで、ひたすら何も考えなくなった結果

 
考えれば考えるほど負のスパイラルに陥ることを学習したので、夫婦関係のこと、職場のことなど、自分にとって負の要素を纏ったものについては一切、考えることをやめました。
 
職場のことについては、これまでみたいに大嫌いな上司から突然LINEがくるということがなくなったので、特にそのことで思い悩むことは無くなりました。
 
妻とも一切連絡を取らなくなりました。
 
そもそも、適応障害の治療法とは、「ストレス源を断つ」ことですからね。
 
つまり、実家にいて、あらゆる悩みの種から避難できているこの状態は、適応障害の治療には理想的なのです。
 
そして、抗うつ薬を毎日忘れずに飲み続けました。
 
そんなこともあってか、相変わらず気分はやや沈んでいましたが、部屋に引きこもっていることが億劫になってきました。
 

 

どこかに旅に出たくなった

 
朝起きて、朝食を食べ、横になって、昼食を食べ、横になって、夕飯を食べ、薬を飲み、お風呂に入り、眠れないので起きてる。
 
これが私の1日でした。
 
こんな生活を2か月ほど続けていたら、「飽き」という感情が芽生えました。
 
自室にこもって、何もしないでいる生活に飽きてしまったのです。
 
沈んでいた気持ちが一気に晴れやかになったわけではありませんが、とにかく「退屈だ」と思うようになったのです。
 
これはつまりどういうことなのか。
 
今までは、自室にこもって横になった状態でも、頭の中が負のスパイラルでぐるぐるしており、とにかく頭の中が忙しかったのでしょう、何もしていないようで実はかなりエネルギーを使っていたのだと思います。
 
しかし、薬を飲み、何も考えずに安静にしていた結果、負のスパイラルに陥ることがなくなり、心に余裕ができてきたのではないかと思うのです。
 
うつや適応障害の治療において「焦ることは禁物」とよく言われますが、真理だなと思った出来事でした。
 

 
罪悪感を一切捨て、とにかく何もせずに薬を飲みダラダラする。
 
これがベストであり、唯一の治療法なのではないかと思います。
 
快方に向かい始める時間は個人差があれど、焦らず休めばきっと光は見えるのだと思います。
 
この時、療養休暇中であり、給料も問題なく振り込まれていたので、比較的財布に余裕がある私は、あることを考えるのでした。

 

行ったことのない「あの場所」へ1週間旅に出た

 

9月後半、夏が終わり秋に差し掛かってきたころでした。

 

職場、夫婦関係、どちらもこれからどうしようかということについて中途半端なままでした。

 

考えなければ、決めなければと思えば思うほど、また負のスパイラルに陥りそうな気がしました。

 

そして、何もしなければしないでまた退屈でした。

 

そんなとき、「そうだ、旅に出よう」と思ったのです。

 

 

旅に出れば、結論が見えてくるかもしれないと思ったのです。

 

行先は、これまで一度も行ったことがないあこがれの地、北海道を選びました。

 

札幌か函館あたりをのんびり2泊3日できればいいなと思い、ネットを見ながらプランを練っていたら(プランを練れるくらいにまで余裕ができていたのです!)...

 

なんと、JR北海道の周遊フリーパス(1週間)が売っているではありませんか。

 

www.jrhokkaido.co.jp

 

このチケットは現地でしか買えないとあり、すぐ航空チケットを予約、3日後には北海道に上陸し、周遊パスを買っている自分がいました。

 

1週間の弾丸ツアーの果てにつかんだもの

 

あまりにも北海道旅行の内容で埋めてしまうと、このブログ本来の趣旨から逸脱するので控えますが、1週間でJRを使って北海道を1周するプランを立てました。

 

皆さんご存じのように北海道は広く、本州、四国、九州に住んでいると、およそ日本国内とは思えないような規模の大きさに面食らうことと思います。

 

私も、降り立った時は「外国に来たのではないか」と思いました。

 

 

1週間の行程の中で、札幌、旭川稚内、網走、根室、函館などなど、主要なところは大体訪れました。

 

1週間という限られた時間だったので、日中のほとんどを移動に費やしてしまいましたが。

 

そのせいもあってか、車窓から眺める景色を見ながら物思いにふける時間が多かったように感じます。

 

今思えば、それがかなり私にとってプラスに作用したのかもしれません。

 

それから、北海道といえば雄大な景色においしい料理。

 

 

それらは、これまで絶望のどん底にいるような気分だった私を、どうでも良い気分にさせてくれるような気がしました。

 

行く先々で仲良くなった人たちもいました。

 

1週間の中で、かなり久しぶりに贅沢の限りを尽くした私は、帰るころに、ただ、こんなことを思っていました。

 

「また来たい。」

 

心に余裕ができた結果、決断力がよみがえってきた

 

職場でのストレスから適応障害になり、それがきっかけで妻との関係悪化。

 

このWパンチのせいで、2か月間ふさぎ込んでいた私は、1週間北海道へ旅に出ました。

 

物思いにふけったり、雄大な景色やおいしい料理を堪能し、帰るころには「また来たい」と思うようになりました。

 

これがどういうことを意味するのか。

 

明らかに、出発前よりも心に余裕ができてきたということです。

 

出発前は、復職にしても、夫婦関係にしても、考えるだけで負のスパイラルに陥るため、考えたくもなかった。

 

しかし、旅から帰ってくる頃には、以下のように、自分の今後についてイメージできるようになっていました。

 

・別居中の妻と離婚する

 

・離婚というタイミングに合わせ、退職願を書く

 

・来年4月復職をめどに、ゆっくり休む

 

イメージした後、はっきりとした決断に至りました。

 

こうやって文字化すれば、「なんて単純なことか」と思うかもしれません。

 

しかし、うつや適応障害というのは、こういったことをイメージすることさえも大変困難を極めるのです。

 

自分の将来のイメージは自分が一番はっきりとできるのに、それすらもできなくなり、ただただ不安だけが押し寄せるのです。

 

それなのに、心に余裕ができた結果、今後の自分について、自らがしっかりとイメージできて、決断までできるようになるというのは、かなり大きな一歩であったように思うのです。

 

 

精神疾患の治療で大事なのは、よく休み、よく遊ぶことで、心に余裕を生み出すことなのかなと、自身の経験則から導き出せたと思っています。

 

遊ぶには大前提として、よく休むことが必要になりますが。

 

こうして、リカバリーを果たした私は、実際に離婚届を書いて妻と離婚し、職場に退職願をもっていくところまで進んでいきます。(続く)

 

 

私が転職を決めるまで その8 ~うつ、適応障害は薬を飲めば快方に向かうわけではない~

 
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
 
社会復帰から今日で6日目になります。
 
久々に、身体が重い感じがします。
 
これが仕事した後の疲労感だったよな、と、少し懐かしい感覚があります。
 

 
もちろん前職を休む前の状態は論外ですが…。
 
久々に社会復帰し、疲れすぎて寝落ちしてしまったので、今日はボリューム少なめに更新しようかとおもいます。
 
今日は、適応障害が原因で夫婦仲がこじれ、別居することになってから、心がジェットコースターのように波打った時についてのお話です。

 

やるせなさしかなくなる

 
別居は決まったが、私の判断能力が弱っていて、具体的な今後の話をすることはありませんでした。
 
というより、しないようにしました。
 
しばらく妻と連絡を取らない状態が続きました。
 
私の気分の浮き沈みはしばらく続きました。
 
とても虚しいし悔しかったです。
 
ただ、職場から連絡が来ることはなくなりました。
 
メンクリで、職場から連絡が来ただけでパニック発作を起こした旨を話したら、診断書に「職場からの連絡は一切しないように」と書いてもらえたからです。
 
その点、仕事面については気は休まりましたが、そのかわりに夫婦関係のいざこざ。
 
何で私ばかりこんなに四方八方から痛ぶられなければならないのか。
 

 
私はあなたたちに何か悪いことしたか。
 
何か恨みを買うようなことをしたのか。
 
考えれば考えるほど、気分が沈んでいきました。
 
気分が沈んでしまうので、何も考えないようにしました。
 
8月から9月にかけて、何も考えずにもぬけの殻のように過ごしていたと思います。

 

薬が効き始めて、少し上向きになった。が...

 
9月に入るころ、新しい薬が効いてきたのか、少しは散歩などをするようになりました。
 
今まで見る気のなかった動画なども見たくなり、布団の中でparaviでドラマを見漁る日々でした。
 
とは言え何も考えなくても、職場で私をいじめてきた上司のこと、手のひら返しをしてきた妻のこと、そしてその両親のことは嫌でも脳裏をよぎります。
 
毎晩のように、私をいたぶった人間が夢に登場します。
 
そしてそいつらに負けてしまった私を、私が責めてしまう
 
脳裏をよぎるだけでとてもしんどくなり、布団に篭る毎日でした。
 
そして気分が落ち、運動もせずただただご飯を食べて寝る生活に戻り、抗うつ薬の副作用もあってか、私は8キロ程度も太りました。
 
退屈な日々を打破するために、青春18きっぷで遠くまで行くことも考えましたが、大規模なプランを立てようとすると頭が混乱する自分がいました。
 
こんな旅行の計画も立てられないのかと、自分を責めて、また塞ぎ込みました。
 

 
自分が楽しいことですら段取りできなければ仕事なんてできるわけがない、私は使えない人間なんだと、とにかく自分を責め、落ちました。
 
私は大学まで真面目に勉強していたのに。
 
私の同期や後輩で社会で活躍している人なんてごまんといるのに、何で私はこんなにできないんだろうか?
 
とにかく自分を責め出しては止まりませんでした。
 
このように適応障害になると、いったん自分を責めるスパイラルに陥って仕舞えば、とことんどん底まで落ちてしまうのです。

 

意外と理解してもらえない精神疾患のつらさ

 
これが、うつや適応障害が本当に辛いと言われる所以だと思います。
 
ただの「体調不良」ではないのです。
 
というか、「体調不良」という括りで語っては絶対にいけないのです。
 
「気の持ちよう」で何とかなると思われますしね。
 

適応障害」って、ずばりこんな感じじゃないですか?(AI画伯作)
私に至っては、前職場や義理の実家で自己肯定感というものをとことん削られていましたので、自分を支える拠り所もなかったわけです。
 
誰にも肯定されない上に、自分を肯定することもできなければ、当然気分が良くなるわけがないですよね。
 
そして何より、服薬して安静にしているからと言って、決して右肩上がりに元気になっていくわけではないということを、当事者以外の人ももう少し知るべきだと思います。
 
良くなったり悪くなったり、嫌なことを思い出してはそうでもなくなったり、不安になっては自己解決したりを繰り返す日々なのです。
 

気分の波を可視化したグラフです。
もちろん、数少ない全エネルギーをそこに費やすので、何もできません。
 
今このブログを読んでくださっている、うつや適応障害の経験者や当事者の方は、「わかるわかる!」と思っていただけるかと思います。
 
そしてそれ以上に、自分が辛い状況が、誰にも理解してもらえない苦しさというものも同時に、共感していただけたかと思います。
 
うつや適応障害には、まだまだ市民権が得られていないのが、今日の我が国の現状なんだと思います。
 
うつや適応障害になったことのない方にはいまいち共感していただけないかと思いますが、これが真実です。
 
とにかく自分を責め、気分が落ちる毎日でしたが、ここからまた、気持ちが挽回し始めるできごとがあったのです。(続く)

私が転職を決めるまで その7 ~精神疾患に理解のないパートナーなんてパートナーじゃない~

 
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
 
このブログを始めて1週間が経ちましたが、私がブログを始めるにあたり、参考にしている本があります。
 

 
森山ルカさんのアフィリエイトで夢を叶えた元OLブロガーが教える 本気で稼げるアフィリエイトブログ 収益・集客が1.5倍UPするプロの技79という書籍です。
 
私はこの本を1日かけて読み、その日のうちにブログを開設するに至りました。
 
非常に具体的なテクニックやアドバイスが散りばめられていますが、本書最大の特徴は、終始アフィリエイトブログはすぐには結果が出るものではないけど楽しんでやろう!」という背中を押してくれるメッセージが込められているということです。
 
嫌な思い出を振り返って文字化することは気持ちのいいことではありませんが、気がついたら4000文字書いてることもあり、たまに自分でびっくりしてしまいます。
 
利益が出ないと焦るし、毎日何のためにやっているんだ、という気持ちに陥りがちです。私も今日時点では利益は出ていますが、うまい棒が一本買えるくらいでしかないです(それでも大きな一歩です!)が、それでもインプレッション数やTwitterのフォロワーは昨日よりは増えている状態が続いています。
 
このブログを読まれている方の中にも、「自分の経験をブログに書きたい」とか「ついでに副業にできればいい」とお考えの方がいらっしゃると思います。ぜひ、以下の書籍をお手に取って参考になさってください。
 
書籍の詳細は以下を参照してください。Kindle版もあるようです。
 
 
今日は、私が昨年の夏に職場でのストレスから適応障害になり、療養休暇を取得したあと、症状が悪化してしまってからのお話をします。
 
前回のお話はこちら👇
 

パニック発作、その後

 
A主任から個人LINEで仕事の連絡が来た途端に過呼吸などを伴うパニック発作を起こしてしまい、これまで安定していたメンタルの調子が一気にどん底に落ちました。
 
妻や義実家には「8月の中旬までに何も問題がなければ、療養休暇を終え、帰宅し、復職し結婚式の準備を再開する」という話でまとまっていました。
 
私もそのつもりでした。
 
何も問題がなければ、です。
 
パニック発作を起こしてから数日経ち、部屋に引き篭もる状態が続いていました。
 
復職予定日まであと2日しかありませんでした。
 
妻に、正直に今の状態を伝えることにしました。
 
先日職場から連絡が来ただけでパニック発作を起こしてしまったこと。
 
今週中に復職は不可能だということ。
 
それに伴い、結婚式も延期せざるを得ないということ。
 
それを妻に連絡したところ、妻は逆上しました。
 
後日私の実家に一人乗り込み、私の両親を相手に説得を始めました。
 
私は自室に篭り、その様子を聞いていました。
 
リビングから漏れ聞こえてくる声で私は戦慄したのを覚えています。
 

 
「息子さんをそうやって甘やかしていたらいつまで経っても良くなりません。」
 
「私は結婚式がしたいんです。絶対に予定日にやりたいんです。」
 
適応障害なんて気の持ちようなんだから、よくならないということは息子さんに治す気がないということです。私の気持ちなんてまったく考えてないんですよね。」
 
「私の母も同じ考えです。結婚式ができないといったら、大泣きされました。」
 
今まで見せたことのない横柄かつ自分勝手な人柄を曝け出していました。
 
その後、妻は私に会いに自室へやってきました。
 
ドアを開け、私を見るなり、開口一番こう言われました。
 
「ねぇ、本当に結婚式できないの?」
 
 
 

 

離婚協議へ

 
妻は、私の身を案じる言葉「具合はどう?」「まだ辛い?」「ゆっくり休めてる?」などというのとは一言も言わず、ただただ約束していた日までに適応障害を治せなかった私をひたすら罵倒し続けました。
 
ついさっき私の両親に言ったことに加え、
 
「今回せっかく来てくれるために友達が航空券をとってたけどそれもキャンセルになるね。すごく迷惑かけることになるよ。」
 
「これから子供作りたかったのに病気になっちゃって、子どもはどうするの?」
 
などと、私のことなんて三の次にも四の次にもならないようなことを言われました。
 
その結果私は再びパニックを起こし、手元にあったテレビのリモコンやら、スマホやら、本やらを壁に投げつけました。
 
そして堰を切るように大声で泣き出しました。
 
大きな物音と私の泣き声に気がついて入ってきたのは、父親でした。
 
わたしのせなかをさすって「大丈夫、大丈夫だ」と、それだけ言って落ち着かせてくれましたが、私はなかなか落ち着けません。
 
とうとう、「もう死にたいよ!!!!」と叫んでしまいました。
 

 
これが生まれて初めての本格的な希死念慮というものだったと思います。
 
最愛だった人間に裏切られたのですから、死にたくなるのも無理はありません。
 
息子をなだめる父親と、むせながら泣く私をよそに、妻は「もういいです、帰ります」とそっけなく帰宅しました。
 
私が適応障害を発症し、休むことになったあたりからの義実家の私に対する扱いや、旦那が「死にたいよ」と言っている状況なのにエゴを突き通す妻をみて、私はもうこれ以上彼らと同居することはできないと感じたのでした。
 
メンタルクリニックの受診日はその翌日で、この日に問題がなければその翌日に職場復帰でした。
 
しかし、前回受診日と比較しても明らかに私の状態は悪化していたようで、療養休暇は10月末まで延長になりました。
 
薬も、これまでの薬は副作用がひどかったことを主治医に伝えると、、サインバルタという薬に変えてもらいました。
 
前回受診日とは打って変わり、妻は同席しませんでした。

 

あっけなく終わりを迎えた夫婦生活

 
1週間後、結婚式をキャンセルにするか延期にするかを話したいということだったので、私と両親3人で義実家に訪問しました。
 
ですが、約束の時間になっても誰も出迎えに来ません。
 
5分後、ようやく現れました。
 
この時点で、もう私たちとは縁を切りたいのだなということが良く伝わってきました。
 
今回、わざわざ集まって「結婚式を開催するのか延期するのか」を議論することに、私はすでに違和感を感じていました。
 
延期という選択肢なんかないでしょ、と。
 
内金や分割払いの話などをつらつらされましたが、何も頭に入るはずはないのです。
 
全ての話が終わった後、私は口を開きました。
 
「あなた方は手のひらを返してきました。私は自分の名前が変わる覚悟で、実家の戸籍から抜けることを承知で、あなた方の家に入りました。それなのに、いざ私が病気になった瞬間に、まるで腫れ物に触るような扱いをしてきましたね。娘さんも、私の身を案じることなく、結婚式の開催可否の話ばっかりで、非常に悲しかったし、辛かったです。私はもうこの家に戻ることはできません」
 
一般的にうつや適応障害の時は、人生における重要な決断は避けるべきとされており、私自身も「離婚」という決断を今ここでしろ、と言われても判断がつかずで無理でした。
 
しかし、判断力以前に、私が「この家は嫌だ。私を疫病神扱いしている。もう帰れない。」と直感で思ったため、思ったことは素直に伝えたつもりでした。
 
微かな沈黙の後、妻が口を開き、こう言いました。
 
「ふーん、そうですか。わかりました。」
 

 
「わかりました」という言葉が、離婚の承諾という意味であるということは後日明らかになりました。
 
もうすでに離婚を覚悟していたかのような余裕の見せ方でした。
 
私と私の両親が実家に帰ろうと義実家を出ようとした頃、妻とその母がヒステリックな形相で喚き散らしてきました。
 
「あなたが8月までに治すって言ったから、療養休暇とるの認めたんでしょ!!」
 
何を言われても、私は何も響きませんでした。
 
そんなことを言ったつもりはありませんが、そのように受け止められていたことも悲しかったです。
 
妻とはそれっきり対面することはありませんでした。
 
これまで一体なんだったんだろうという気持ちと、裏切られたなという気持ちと、あ、もうこれで一つ片付いたんだ、という気持ちとでで頭の中が混乱していました。
 
今考えると、悲しくて虚しい出来事のように思えますが、「一番大切な人が苦しんでいるのを二の次にする人間とは一緒にいてはいけない」ということを学んだ出来事だったと思います。
 
そんなわけで、10月末までの療養休暇は続いていきます。(続く)