私が転職を決めるまで その1 ~新卒で市役所正職員に~
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
昨日からブログの投稿を始めました。
私は会計年度任用職員という地方公務員なのですが、一般的に副業が不可とされている地方公務員でありながらも、私に関しては副業が許されています。
私は、身分としては「パートタイムの会計年度任用職員」であるため、地方公務員法で規定されている「営利企業等従事への制限」の例外扱いなのです。
そんなわけで、このように副業としてブログの執筆して収入を得ようとできたりします。
まあ会計年度一本だと手取り月収はなかなかよいものではないので、こんな具合がちょうどよいかなと思っています。
ここら辺の話はのちほどゆっくり触れるとして、今日は私の社会人生活がスタートした頃のお話をしたいと思います。
希望を胸に市役所職員に
私が大学を卒業して市役所に入庁したのは4年前の話です(以下、以前勤務していた市役所を「前職場」ということにします)。
大学では教育行政の勉強をしていたこともあり、卒業後は官公庁に勤めると決めていた私は、就活で県内の市役所の試験を片っ端から受けましたがどれもダメでした。
思うに、当時の私は「大学の勉強をだれよりも頑張っている」「奨学金を借りているのだから、必死こいて勉強しないとだめだ」「自分には市政に携わって大きなことをしたいという熱い想いがあるんだ」という、意識高い系大学生だったように思います。
そんな中、授業をさぼったり、なんだか「うまいぐあいに」ズルくいろいろこなしている同級生たちが就職を決め(何人か市役所もいました)、私は焦るばかりでした。
そんな中、秋ごろに前職場の後期募集が開始されます。
「公務員らしくない人材」「熱い想いを持った人材」を求めます!ということを前面に押し出した前職場の採用案内に私は胸を打たれていたように思います。
今となっては、ふざけんなwwって感じですけど。
作文試験や面接試験で、大学で頑張ったことや前職場のある自治体への「熱い想い」を思う存分ぶつけた結果、見事内定。
その後の市長講話や内定者懇談会に出席したら、「なんか体育会系だな...」と思った瞬間はあったものの、念願の市役所職員になるとあって、そちらのほうの喜びのほうが大きかったです。
配属先は...
年度末に人事異動が発表され、その際に新規採用職員の配属先もわかります。
私の配属先は、「産業振興課(仮名)」でした。
前職場のある自治体は、とにかくやる気や実績のある企業が多く、企業支援に一番力を入れているといっても過言ではないほどでした。
のちに先輩から聞いた話だと、「新卒で産業振興課に入る人間はここ数年いなかった。異動で入る人間もかなり精鋭が選ばれるのに、新卒で入るということは相当優秀だね」ということでした。
この言葉に私は大きなプレッシャーを感じましたが、なにはともあれ頑張るぞ!と意気込んだのでした。
担当業務は...
新人ということもあり、基本的な事務(補助金申請、届出等)が充てられましたが、市を挙げて全力で実施している事業の担当にもなりました。
それは、「市内企業の海外交流事業」です。
申請書を受理したり、審査したりするものではないので、当然マニュアルも何もありません。
基本的には地域の貿易推進センター等と連携をし、事業を進めていくというものでした。
たまに海外から大臣が市長を表敬訪問をしたり、逆に市長が海外へ訪問することがあるので、その際のロジづくりや旅費の支払いなども全て「海外担当」の仕事になります。
今でさえも「ここまで一人でやるの?」という感じを受けますので、ついこの前まで大学生だった入庁直後のペーペーにとっては「?????」という感じでした。
担当業務が決まった帰りの電車内で嗚咽を漏らしたのを今でも覚えています。
しかし、先ほどにも書いた先輩の言葉を思い出し、「あ、自分は期待されているんだ」と自負することで無理やりやる気を出していた気がします。
なぜ新人の私がこんなに大規模な事業を任せられることになったのか。
留学経験があり、外国語が堪能だから君ならできるのではないかと思った、と後日課長から聞かされたことがあります。
確かに面接のとき、「外国語で自己紹介してください」と言われてすぐにしゃべることができたことや、外国への熱い想いを面接で叫び倒したため、その点を買われたのはうなずけますが…。
「外国語能力と事務処理能力は決して比例するものではないのに…」と、後日思った記憶があります。
運命の人との出会い
運命の人と書きましたが、ポジティブな意味ではありません。
私の人生を狂わせた張本人がここで登場するのです。
A主任は、私の海外業務の副担当につきました。席は私の真正面です。
去年まで海外業務の主担当をしており、ノウハウはわかっている人でした。
OJTが別にいましたが、席が近いのと業務が被っていることから、実質OJTはA主任が担当している状態でした。
「わからないことがあっても大丈夫!いっしょにやっていこう」という言葉をかけられ、当時は不安が払しょくされたことを覚えています。
しかしこれが地獄の市役所人生の始まりでした。(続く)