私が転職を決めるまで その5 ~結婚、そして転落~
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
社会復帰後初の1週間が終わりました。
昨年の7月からずっと休んでいたので、この「週末」というワクワク感を久しぶりに味わっています。
読者の方たちの中には、共感していただける方も多いのではないでしょうか。
ただ、日曜日の夕方に憂鬱になる感じを味わうことになるのかは少し怖いですが…。
でも、現時点では今の職場環境に対して何一つ問題はないですし、むしろ「仕事を積極的に覚えて職場の皆さんの力になりたい!」とおもっているくらいですので、憂鬱な感情は沸いてこないでしょう。
勤務時間も少ないですし、適応障害発症後の社会復帰としては理想的な労働環境ではないでしょうか。
これまで、このブログ内では、私が1回目の適応障害になったことをお話ししました。
1回目の際は、メンクリで診断書をもらっただけで、その後薬を飲んだり、定期的に通院したりということをなぜか私は行いませんでした。
その時は、適応障害という病気を甘く考えていたのだと思います。
今考えると、1回目の適応障害は環境調整で少しは緩解したかと思いきや、脳みそがマヒした状態で劣悪な職場環境にさらされ続けたことによって慢性的に悪化していき、最後の最後にとどめを刺されて、2度目の適応障害を発症してしまったのかなと考察できます。
1回目発症後、どのような経緯があって深刻な状況に陥ったのか。
今日はそのお話をしたいと思います。
同業の女性と恋愛、そして結婚
産業振興課は、市内事業者向けのコロナ対策支援措置を実施していました。
それは、市内事業者向けの補助金です。
当然申請が殺到しますので、日付をまたぎそうになるレベルで時間外が発生するくらい、多忙を極めました。
ちょうどこの時期に、プライベートでつながりのあった、隣町の町役場の女性職員とお付き合いを始めました。
業務の忙しさを慰めてくれた彼女のやさしさに惚れたのだと思います。
2人の想いではここにわざわざ書くことではないので割愛しますが、およそ1年後、私からプロポーズをして、結婚をしました。
その際、一人っ子である彼女の両親の強い要望があって、私は彼女の家に婿入りすることになりました。
結婚し、名字が変わり、私は市役所職員3年目に突入しました。
結婚したこともあり、多少業務が忙しくなっても、ある程度は心のバランスが取れていたのでしょう、すぐに気を病むことがなくなりました。
先にお話ししたA、B、C主任の私に対する理不尽な接し方は私が結婚してもとどまることを知りませんでしたが、それでも家に帰ったら愚痴を聞いてくれる妻という存在がいたので、ひどくため込むことがなくなったのだと思います。
このままであれば、今の職場で定年近くまで勤められるかな、と思いました。
しかし、本当の地獄はここからだったのです。
4年目職員になったとたん、職場環境が激しく悪化
3年目までは、産業振興課の中でも比較的「企画、事業」的なものではなく、「事務、届出」的なものを主担当として遂行していたことに加え、新型コロナウイルス対策措置の事務をさばいていたので、いわゆる「お役所仕事」についてはノウハウが固められていったように思います。
しかし、4年目になったとたん、大規模な担当替えが発生します。
これまで担当していた業務からすべて外され、これまでやったことのない企画、事業系の業務がすべてを占めることになりました。
市内の同業種組合の事務局担当、全く自活しないにも関わらず理不尽な要求ばかりしてくる指定管理施設担当、よくわからないまま進んでいた地域おこし協力隊の事務担当、前任が仕事を属人化させまくった挙句転職され完全に宙ぶらりんとなった業務の地雷処理担当…などなど。
なぜか、職員が10人もいて係が1つしかないうえに、職員1人が主担当業務を5~6つ程度抱える課だったため、事業担当一人当たりの負担はすさまじく、それに加えて上司が一つ一つの業務を把握するほど余裕がないため、必然的に業務を抱え込んでしまうという構造が出来上がっていました。
この組織的欠陥の話については、後ほどゆっくりお話ししたいと思います。
これに加え、誰もが予想はしていたが実現をしてほしくなかった事態が発生します。
それは、「A主任の昇進」です。
入庁以来約10年間、産業振興課ひとすじ(霞が関への出向を含める)だったA主任は、係長試験に合格してしまい、A係長となりました。
入庁以来、異動希望を毎年書いているにもかかわらず異動がかなわないうえに、私の精神を幾度となく踏みにじってきた人間が、私の直属の上司になったのです。
これが何を意味するか。
いままで、何とか関わりを避けることができていた人間と、今後は何が何でも関わっていかないといけなくなってしまったのです。
対外調整、年度末処理…オーバーワークの極み
年度が変わった瞬間から、業務は多忙を極めました。
私が担当していた指定管理施設の横に、大規模な市営のスポーツ複合施設が完成する関係で、夏頃に市をあげてこけら落としイベントを開催することになっていました。
市としては、周辺施設総ぐるみでイベントを盛り上げたく、私が担当していた施設の指定管理者(以下、指定管理者とします)にも協力を仰ぎましたが、全く自活する気配がなかったのです。
そのうえ、前年度に予算取りをしているにもかかわらず、追加で予算をよこせと言ってくる。
そして、私は同業種組合の事務局担当を「一人で」やらされていたのですが、組合もイベントを盛り上げたいという話になり、こちらもこちらで早々に動き始めます。
しかし、全くやる気のない指定管理者と、やる気に満ち溢れている同業種組合の間で確執が起こり、その両方を担当していた私は、当然板挟みになりました。
その電話対応などで丸一日が過ぎ、たまっていた事務処理を処理するのに日付をまたいだことは1度や2度じゃありません。
クレーム対応、理不尽な要求など、上に投げたくても、上は「担当がまずすべてを把握しろ」というのですから。
まして、公務員界隈の皆様ならご存じだと思いますが、年度初めは契約事務やら、目的外使用料の関係やら、出納閉鎖(5月末)までの支払いやら、ひたすらに事務処理が立て込む時期です。
外部団体の方々の火消しをしながらでは、当然業務は円滑に回りませんでした。
支払い関係は上司の力を借り、事なきを得ました(係長は関わりたくないので、課長補佐です)が、締結しなければならない委託契約などの事務が完全にほったらかしになっていました。
ミスを連発し、パワハラ再開
4月から5月にかけ、ひと月の残業時間は100時間を超えていたと思います。
一度も有給休暇を取れなかったですし、週末は毎回のように出勤でした。
「主担当がすべてやらなければならない」ということを暗に叩き込まれていた私は、必然的に自分の担当業務をすべて抱え込む形になりました。
しかも、残業をしていたのは、課の中で私一人のみ。
組織の構造上といいますか、業務の特性上といいますか、業務を均らすということができないのです。
現職場の窓口事務のように、何一つ決まったマニュアルがあり、誰でもできるようにする業務ではなかったのです。
係が一つしかないうえに、副担当も他業務で忙殺されているので無理もありません。
外部の人間も私にしか連絡をよこさないですし。
6月中旬になり、「頭が回らなくなってきた」「自分が発する言葉が不明瞭になってきた」「判断がつかなくなってきた」と感じるようになりました。
そんな中、私は同業種組合を怒らせてしまう致命的なミスを犯してしまうのです。
判断力が壊滅していた私は、仕事を回さなければならないと、副担当や上司に相談せず、独断で組合負担金の話を進めてしまったのです。
それが組合長の逆鱗に触れ、ここでは紹介することができないほど罵詈雑言にあふれたメールをもらうことになります。
A主任改めA係長と一緒に組合に謝罪に行きましたが、その日を境に、A係長は私に対して、ひそめていたパワハラ気質を一気に爆発させました。
私が報連相もせず独断で業務を進めたことに対してマジギレし、私の行動を逐一監視、私が何かするたびに逐一報告という義務が課せられました。
また、私がだれにも助けを求めずに仕事を抱えていたことに関しても激しく追及され、抱えている事務の洗い出しを、激しい罵倒をされながら進めたこともあります。
年度当初にするべきだったが多忙を極めてできていなかった業務についても、おかまいなしに「なぜ寝かせていたのか」といった追及をされたりもしました。
私が一挙手一投足なんかをするたびに、4年前のように罵声を上げるようになりました。
私が電話を取ると、私の近くに来て、電話が終わるまでにらまれたり、
メールでCcにA係長を入れ忘れただけで怒鳴られたり。
A係長は、明らかにパフォーマンスが落ちていた私に対し、疲弊している部下にかけるはずのない言葉を、とんでもない声のボリュームでぶつけてきました。
当然、おかしくならないはずはありません。
その日当たりから、以下の症状が顕著になりました。
- 朝起きられない
- 食欲が全くない
- 出勤前に嘔吐
- 突然涙が出る
- 言葉が出てこない
- 笑えない
- パソコン画面を認識できない
職場で、心身ともに弱っている中、A係長は次のように私に怒鳴ったこともあります。
「いい加減普通にふるまえや!!!!!」
また、多かったのは、市で導入していたチャットツールでの陰湿なパワハラです。
C主任も副担当だったので、A係長、C主任、私の3人のグループチャットがあったのですが、そこでの私に対する2人のあたり方がとにかく辛辣でした。
私は上記のような症状が顕著になり、イベント直前にもかかわらず、仕事を休みがちになりました。
半日休む日もあれば、丸一日休むこともありました。
そんな中でも、2人からの私に対する罵詈雑言だらけのチャットは止まりませんでした。
こんなに打ちのめされた私に、判断力も何もかも弱っている中進めた業務について、業詰めの甘さを責めるなんて、普通するでしょうか?
私は、一度詰めの甘さを責められた際「体調不良が重なり、確認報連相できなくてすみません」と謝ったことがあります。
その際に、2人はチャットで私に何と言ったと思いますか?
「もう言い訳はいいよ。」「そんなことくらい自分の頭で考えればわかるだろ?そもそも体調不良でもやれよ。」
このやりとりで、私のメンタルはついに崩壊しました。
この日以降感情がおかしくなり、職場の事務室で堰を切ったように大声で泣き出したり、業務時間中にトイレに2時間くらいこもったりと、とにかく普通じゃない行動が増えていきました。
そんな状況だったので、イベント開催を待たず仕事を休み、数日後メンタルクリニックを受診しました。
まぎれもない適応障害という診断をもらいました。
私は、同じ要因で、2度も適応障害にり患してしまったのです。
この2度目の適応障害が、私の今後の人生を大きく大きく変えていくことになります。(続く)