私が転職を決めるまで その6 ~「適応障害」をよく理解していなかった私と義実家の裏切り~

 
こんにちは、ポンコツハム(@pmktm)です。
 
3日ぶりの更新となります。
 
週末に加え、月曜日は年休を取ったので、ゆっくりしていました。
 
ブログを始める前は「毎日何が何でも続ける!!」と意気込んでいましたが、最初から飛ばしすぎて後からダレるのは嫌だと思い、本職が休みの日はこちらも休むという自分ルールを作りました。
 
さて、こちらのブログを始めてもう1週間がたちました。
 
スズメの涙ほどの収益があり(ほんとにスズメの涙です。一桁円ですw)、0から1になった瞬間ってこんなにうれしいんだと思ったところです。
 

 
千里の道も一歩から、そして、継続は力なりです。
 
古の時代から言われていますね。
 
今日は、適応障害を発症し、療養休暇を取得してから、それが原因で夫婦関係がこじれていったお話や、療養初期のお話をしたいと思います。
 
かなり個人的な話になりますがご了承ください。

 

半月の療養休暇取得

 
昨年7月末、私は人生で2度目の適応障害と診断されました。
 
主治医に診断書を書いてもらい、暫定的に、休暇期間をおよそ半月にすることにしました。
 
理由としては、当時の妻と話し合ったのですが、昨年の秋に結婚式を控えていたということもあり、「早めに治して」準備を詰めていこうとしたためです。
 

 
実際のところ、療養休暇に入るまでも、招待状の送付や式場との打ち合わせが続いていました。
 
もちろん、頭が機能していなかったのでなにも考えられませんでしたが…。
 
そんなこともある中で、ようやくストレス源から距離を置き、休暇に入ることになりました。
 
しかし、本当の地獄はここからだったのです。

 

妻及び義理の両親から手のひら返しされる

 
私は、昨年の春に婿入りをし、義理の両親と共に暮らす道を選びました。
 
妻が一人っ子だったということもあり、なぜか令和の時代になっても家父長制の考え方がまかり通っていた義実家において、苗字を変えて婿入りすることを強く強く懇願されました。
 
私の両親からは「複雑な気持ちだ」と正直な気持ちを吐露されたものの、「お前が幸せになるならそれでいい」と、最終的には婿入りを了承してもらえました。
 
私も、「2人が一緒になって幸せになれるのなら」と、深く考えないまま名字を変える決断をしました。
 
少し納得しきれていないながらも、その後の結婚生活は比較的順調であり、義理の両親からもそれはそれは手厚くしてもらったものです。
 
私が元気なうちは。
 
結婚して1年弱が過ぎたころ、私がオーバーワーク気味になり、ミスを連発し、鬼のようなパワハラを受け、メンタルがボロボロになりました。
 
職場の人事課とも相談をし、「療養休暇を取得する流れになる」と、妻とその両親に切り出した時のことです。
 
その時に、これまで優しかった3人が一気に手のひらを返してきた時のことを私は一生忘れることができません。
 
義理の父
「公務員なんか一番ぬるい仕事だろうが。納得がいかないことがあるならなぜそいつ(A係長)らに言わないんだ。あなたがこのまま療養休暇を取り続けるなら、俺は結婚式になんて出ない。」
 
義理の母
「あなたが公務員になるといったから、私たちは結婚を承認したのよ。あなたには一家の大黒柱になってもらわないと困るの。娘を守れないようじゃダメよ。弱いようじゃダメよ。強くなりなさい。せっかく公務員になったんだから、絶対にやめるとか言わないで。」
 
当初、具合が悪くなり始めた時に心配していた妻でさえも
「うつだって思いこんでるだけじゃないの?そんなの気の持ちようだから、治す気がないと治るものも治らないよ。家に帰った時ぐらい笑ってよ。」という始末。
 

 
その後も、体調が悪く午後から出勤を予定していたある日、部屋の布団で横になっていた時、義理の父親に自室に乗り込まれ、
 
「いつまで寝ているんだ。こっちまでおかしくなりそうだよ。社会人としてそんな体たらくはアリなのか?ゴロゴロしているだけで良くなるのか?」
 
もう、精神疾患の人にかけてはいけない言葉のオンパレードです。
 
弱っている私に必要以上のプレッシャーをかけてくるこの状況で、当然心が休まるはずもありません。
 
Googleで「うつ かけてはいけない言葉」で検索すれば、これらの言葉が検索上位に出て来やしないでしょうか笑
 
しかも、一番ショックだったのは、私が妻と結婚できたのは、私が公務員という身分だったからということが判明してしまったということです。
 
義理の両親による遠回しな嫌がらせもありました。
 
療養休暇に入ってすぐに結婚式場との打ち合わせがあり、その日は両家の両親も一緒に打ち合わせに参加する会だったのですが、義理の両親は急遽その日の朝になって打ち合わせの参加をドタキャンしたのです。
 
「急に親戚に赤ちゃんが生まれた」という取ってつけたような嘘の理由を添えて。
 
もともと私に対する接し方が良くなかったのならまだ分かったのですが、普段から親切にしてもらっていただけあって、その落差に愕然としました。
 
頭が真っ白になりました。
 
結果、療養休暇期間は私の実家に帰省することにしました。
 
妻から「私たちの家では面倒は見られない。実家に帰ったほうがいいよ」と言われてしまったのです。
 

実家にて療養

 

帰省後は、実家で2週間過ごしました。
 
2週間経ったらメンタルクリニックの診察日なので、その日に「何も問題がなければ」義実家に戻り、翌日から仕事再開の予定でした。
 
私自身も、結婚式を予定通り開催したいという思いがあり、休み始めた時はうつ病までいかなかったし、1回目の時は1週間で直したし、今回も頑張って治すぞ!」と意気込んでいました。
 
私自身も、精神疾患の恐ろしさを全く認識していなかったのです。
 
メンタルクリニック適応障害の診断を受けた日、抗うつ薬が処方されました。
 
ジェイゾロフトという薬でした。
 
飲み始めは朝の吐き気やめまい、不安感が収まらず、一日中布団の中に入って天井を眺める生活が続きました。
 

 

当然、薬を飲んですぐには効果は表れませんでした。

 
とにかく、「ブレインフォグ」という、目の前にベールがかかったような状態が続いていたのを覚えています。
 
気分も当然のように落ち込みます。
 
テレビで、同年代の人たちが活躍しているのを見て、「ああ、私は一体何をしているんだ」と、ひどく落ち込んだ時があります。
 
そんなわけで、落ちていた時はテレビを見ないようにしていました。
 
また、カウンセリングルームにカウンセリングを受けに行きました。
 
後ほどゆっくりご紹介しますが、カウンセリングの方法には「認知行動療法」「森田療法」「箱庭療法」など、様々なアプローチがありますが、私のカウンセラーは、「ナラティヴ・アプローチ」を主な手段としてカウンセリングを行う方でした。
 
当然、カウンセリングを1回受けただけでは現状は変わらず、実感できる効果はありませんでした。
 
このころの私は、「とにかく早く頑張って治そう」と、気持ちが焦っていたのだと思います。
 
あれだけ世間一般に「うつの時に焦るのが一番怖い」と言われているのにです。
 
しかし、薬を飲み始めてから1週間がたったころ、気持ちに変化が表れ始めました。
 
そんなに遠くないところへ一人で旅行に行ったときに、少しだけ「ワクワク」したのです。
 
ブレインフォグは取れないまでも、「楽しい」と思える自分がいました。
 
気が付けば、療養休暇終了まであと1週間になっていました。
 
「これなら、来週から仕事復帰は無理しない範囲でいけるな」と思いました。
 
しかし、現実は甘くありませんでした。

 

職場からのLINEでパニック発作

 
傷心旅行から帰ってきて、実家で比較的気分が落ち着いているときのことです。
 
A主任から個人LINEが届きました。
 
「お休みのところ失礼します。決算資料を作るときの何某の資料の場所がわからず困っています。保存場所わかりますか?」
 
私はそのメッセージを見るなりこう思いました。
 
「待って、そんな資料知らないし何もまとめてないし、なんでパソコンが目の前にないのに聞いてくるんだ、これは返事しないといけないのだろうか、でも返事したらしたでまたパワハラされる、怖い、怖い、怖い、怖い、死ぬ、死にたい、飛び降りたい、首絞めたい、、、」
 
気が付いたら過呼吸を起こして、涙もダラダラ流れていました。
 

 
激しいパニックを起こし、自室から階段を下りてきた際に偶然幸い母親が帰宅し、落ち着かせてもらいました。
 
「脈拍が異常なくらい上がっていた」と、母は当時の私の状況を振り返ります。
 
パニック症状により心身ともに一気にすり減らした私は、3~4日程度布団から抜け出せない状態が続きました。
 
両親に「気分転換しよう」と外に連れ出されても、一人唖然と突っ立っていることが多かったそうです。
 
その時のことを私は何も覚えていません。
 
薬を飲んで、職場や義実家からも離れているのに、職場のことがちらつくだけでメンタルはどん底に落ちてしまうのです。
 
この時、「こんな状態で復職も結婚式も無理だ。休暇を延長しよう」と思いました。(続く)