私が転職を決めるまで その7 ~精神疾患に理解のないパートナーなんてパートナーじゃない~

 
こんにちは、ポンコツハム(@pmkthm)です。
 
このブログを始めて1週間が経ちましたが、私がブログを始めるにあたり、参考にしている本があります。
 

 
森山ルカさんのアフィリエイトで夢を叶えた元OLブロガーが教える 本気で稼げるアフィリエイトブログ 収益・集客が1.5倍UPするプロの技79という書籍です。
 
私はこの本を1日かけて読み、その日のうちにブログを開設するに至りました。
 
非常に具体的なテクニックやアドバイスが散りばめられていますが、本書最大の特徴は、終始アフィリエイトブログはすぐには結果が出るものではないけど楽しんでやろう!」という背中を押してくれるメッセージが込められているということです。
 
嫌な思い出を振り返って文字化することは気持ちのいいことではありませんが、気がついたら4000文字書いてることもあり、たまに自分でびっくりしてしまいます。
 
利益が出ないと焦るし、毎日何のためにやっているんだ、という気持ちに陥りがちです。私も今日時点では利益は出ていますが、うまい棒が一本買えるくらいでしかないです(それでも大きな一歩です!)が、それでもインプレッション数やTwitterのフォロワーは昨日よりは増えている状態が続いています。
 
このブログを読まれている方の中にも、「自分の経験をブログに書きたい」とか「ついでに副業にできればいい」とお考えの方がいらっしゃると思います。ぜひ、以下の書籍をお手に取って参考になさってください。
 
書籍の詳細は以下を参照してください。Kindle版もあるようです。
 
 
今日は、私が昨年の夏に職場でのストレスから適応障害になり、療養休暇を取得したあと、症状が悪化してしまってからのお話をします。
 
前回のお話はこちら👇
 

パニック発作、その後

 
A主任から個人LINEで仕事の連絡が来た途端に過呼吸などを伴うパニック発作を起こしてしまい、これまで安定していたメンタルの調子が一気にどん底に落ちました。
 
妻や義実家には「8月の中旬までに何も問題がなければ、療養休暇を終え、帰宅し、復職し結婚式の準備を再開する」という話でまとまっていました。
 
私もそのつもりでした。
 
何も問題がなければ、です。
 
パニック発作を起こしてから数日経ち、部屋に引き篭もる状態が続いていました。
 
復職予定日まであと2日しかありませんでした。
 
妻に、正直に今の状態を伝えることにしました。
 
先日職場から連絡が来ただけでパニック発作を起こしてしまったこと。
 
今週中に復職は不可能だということ。
 
それに伴い、結婚式も延期せざるを得ないということ。
 
それを妻に連絡したところ、妻は逆上しました。
 
後日私の実家に一人乗り込み、私の両親を相手に説得を始めました。
 
私は自室に篭り、その様子を聞いていました。
 
リビングから漏れ聞こえてくる声で私は戦慄したのを覚えています。
 

 
「息子さんをそうやって甘やかしていたらいつまで経っても良くなりません。」
 
「私は結婚式がしたいんです。絶対に予定日にやりたいんです。」
 
適応障害なんて気の持ちようなんだから、よくならないということは息子さんに治す気がないということです。私の気持ちなんてまったく考えてないんですよね。」
 
「私の母も同じ考えです。結婚式ができないといったら、大泣きされました。」
 
今まで見せたことのない横柄かつ自分勝手な人柄を曝け出していました。
 
その後、妻は私に会いに自室へやってきました。
 
ドアを開け、私を見るなり、開口一番こう言われました。
 
「ねぇ、本当に結婚式できないの?」
 
 
 

 

離婚協議へ

 
妻は、私の身を案じる言葉「具合はどう?」「まだ辛い?」「ゆっくり休めてる?」などというのとは一言も言わず、ただただ約束していた日までに適応障害を治せなかった私をひたすら罵倒し続けました。
 
ついさっき私の両親に言ったことに加え、
 
「今回せっかく来てくれるために友達が航空券をとってたけどそれもキャンセルになるね。すごく迷惑かけることになるよ。」
 
「これから子供作りたかったのに病気になっちゃって、子どもはどうするの?」
 
などと、私のことなんて三の次にも四の次にもならないようなことを言われました。
 
その結果私は再びパニックを起こし、手元にあったテレビのリモコンやら、スマホやら、本やらを壁に投げつけました。
 
そして堰を切るように大声で泣き出しました。
 
大きな物音と私の泣き声に気がついて入ってきたのは、父親でした。
 
わたしのせなかをさすって「大丈夫、大丈夫だ」と、それだけ言って落ち着かせてくれましたが、私はなかなか落ち着けません。
 
とうとう、「もう死にたいよ!!!!」と叫んでしまいました。
 

 
これが生まれて初めての本格的な希死念慮というものだったと思います。
 
最愛だった人間に裏切られたのですから、死にたくなるのも無理はありません。
 
息子をなだめる父親と、むせながら泣く私をよそに、妻は「もういいです、帰ります」とそっけなく帰宅しました。
 
私が適応障害を発症し、休むことになったあたりからの義実家の私に対する扱いや、旦那が「死にたいよ」と言っている状況なのにエゴを突き通す妻をみて、私はもうこれ以上彼らと同居することはできないと感じたのでした。
 
メンタルクリニックの受診日はその翌日で、この日に問題がなければその翌日に職場復帰でした。
 
しかし、前回受診日と比較しても明らかに私の状態は悪化していたようで、療養休暇は10月末まで延長になりました。
 
薬も、これまでの薬は副作用がひどかったことを主治医に伝えると、、サインバルタという薬に変えてもらいました。
 
前回受診日とは打って変わり、妻は同席しませんでした。

 

あっけなく終わりを迎えた夫婦生活

 
1週間後、結婚式をキャンセルにするか延期にするかを話したいということだったので、私と両親3人で義実家に訪問しました。
 
ですが、約束の時間になっても誰も出迎えに来ません。
 
5分後、ようやく現れました。
 
この時点で、もう私たちとは縁を切りたいのだなということが良く伝わってきました。
 
今回、わざわざ集まって「結婚式を開催するのか延期するのか」を議論することに、私はすでに違和感を感じていました。
 
延期という選択肢なんかないでしょ、と。
 
内金や分割払いの話などをつらつらされましたが、何も頭に入るはずはないのです。
 
全ての話が終わった後、私は口を開きました。
 
「あなた方は手のひらを返してきました。私は自分の名前が変わる覚悟で、実家の戸籍から抜けることを承知で、あなた方の家に入りました。それなのに、いざ私が病気になった瞬間に、まるで腫れ物に触るような扱いをしてきましたね。娘さんも、私の身を案じることなく、結婚式の開催可否の話ばっかりで、非常に悲しかったし、辛かったです。私はもうこの家に戻ることはできません」
 
一般的にうつや適応障害の時は、人生における重要な決断は避けるべきとされており、私自身も「離婚」という決断を今ここでしろ、と言われても判断がつかずで無理でした。
 
しかし、判断力以前に、私が「この家は嫌だ。私を疫病神扱いしている。もう帰れない。」と直感で思ったため、思ったことは素直に伝えたつもりでした。
 
微かな沈黙の後、妻が口を開き、こう言いました。
 
「ふーん、そうですか。わかりました。」
 

 
「わかりました」という言葉が、離婚の承諾という意味であるということは後日明らかになりました。
 
もうすでに離婚を覚悟していたかのような余裕の見せ方でした。
 
私と私の両親が実家に帰ろうと義実家を出ようとした頃、妻とその母がヒステリックな形相で喚き散らしてきました。
 
「あなたが8月までに治すって言ったから、療養休暇とるの認めたんでしょ!!」
 
何を言われても、私は何も響きませんでした。
 
そんなことを言ったつもりはありませんが、そのように受け止められていたことも悲しかったです。
 
妻とはそれっきり対面することはありませんでした。
 
これまで一体なんだったんだろうという気持ちと、裏切られたなという気持ちと、あ、もうこれで一つ片付いたんだ、という気持ちとでで頭の中が混乱していました。
 
今考えると、悲しくて虚しい出来事のように思えますが、「一番大切な人が苦しんでいるのを二の次にする人間とは一緒にいてはいけない」ということを学んだ出来事だったと思います。
 
そんなわけで、10月末までの療養休暇は続いていきます。(続く)